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老いの日、つれづれ。 [日記]

 老いの日つれづれ


 生きる、人生について。中村元さんの「人生を考える」を再度読んでいるところです。「いきる」の問題は自分についてであって他人について、他人の問題ではありませんでした。あくまで自分がどう生きる?わたしの人生ということです。

「在る」について、「自己について」と読みすすめてさらにはっきりすることがありました。誰にとってもその人らしく輝いて生きることが出来る未来につながるのでなければこれからを生きる後世に何を言うことが出来るだろうと思います。世界の八十億かのひとり一人が未来を決めている、その中のひとりであるという自覚が必要と思います。でもそれに耐えることは自分が思う以上に簡単ではない、そしてその強さを持たなければならないと感じます。

ロシアとウクライナの戦争、ガザアでの虐殺、そのほかの土地、国でも争いと戦闘が絶えない。その中で命を失う人、生きるすべを失う人、自然環境の悪化という現実を見せられていると人間への失望のほうが強くなってしまいます。ニヒリズムとの闘いはわたしにとって一番の課題でした。

 「人生を考える」を何度も繰り返しメモを取りながらやっと増補「こころのはたらき」まで読んできました。

青土社は「ニイル選集」を出版している出版社として知っていたのですが、この「人生を考える」を出版することになったいきさつが書かれていて、青土社社長とのお二人の真摯なやり取りの激しさにも感動しました。大きな疑問だったこと、いろいろはっきりしたと思うことがあります。何より虚無になりやすいところを虚無主義から脱却できるだろうと思うところにこれたのはとてもうれしいことです。


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この頃。

 疑問や迷いが少しづつ解消して少しづつシンプルになる。残り少ない時間だからそのほうがすっきりして暮らしやすい。

ちょっと前まで錯綜していたことが消えてしまったように思ったのは邱永漢さんの「香港・濁流水」を読んだときだった。東京新聞に切り替えたのは値段が安いこととそれまでとっていた新聞は読まない記事が多いのでもったいないと思ったためだった。今も節約のために新聞をやめたほうがいいかなと思ったりするが読んでよかったと思ういい記事にであう。だからもっと暮らしが厳しくなったらどうなるか分からないが今は目をとおす。

 草薙龍瞬さんの「ブッダを探して」は必ず読む。最近連載に気が付いたのだがもっと前から続いていたのだろうか。中村元さんの「人生を考える」を読み直している。

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老いの日、つれづれに思うこと。 [随想]

  老いの日々につれづれ。(これは縁側カヘェに書いた感想です)

 現代の若者が感じる生きにくさはひ弱さなのでしょうか。

 先日、私は山上容疑者の起こした殺人と渋谷での母娘傷害事件から感じたことを書きました。二人の容疑者、どちらも若い世代で、私は彼らの幼少期から事件に至るまでの生育がどうだったのだろうかが気になりました。

私は自分の同年代と彼らの時代の違いを感じます。

同じ人間であることに変わりはありませんが、その人間が生きている時代背景はちがいがあります。どんな違いだろうと気になります。

私の子供のころはまだ家族制度が色濃く残る、封建時代とあまり変わらない農村でした。幼少期に戦争があり、国土と生活の疲弊から、敗戦後の混乱の時代、それからの経済の立て直し、経済復興にいたる時代でした。

多くの人が貧しさや不自由さの中にあって目標は似ていて、共通部分が多かった。つまりあまり他との差がなく、理解しやすかったように思います。

この時代でも差別や競争、支配などなかったわけではありませんが、支配権力機構は崩壊しましたが社会は原始時代にもどったかのようでシステムとしての自由競争の激化の波にさらされ、激しく社会構造がかわるという変化はありませんでした。

一方で現代社会の特徴を一言で言うなら欲望の自由競争、裸の個人として社会に投げ出され、自由競争の中を生きる時代ということができます。

 そもそもの人間の原始時代からの歴史の変遷をたどると人間社会が現代までどのように歩んできたかがわかります。そして今どういう地点に到達したのか。

初めの狩猟から、やがて農耕が始まり、土地への定着化、親子兄弟や小さな共同体の集団からその共同体の統治システムを作っていくようになったと思います。このころは個人は集団と一体で、集団の生活、行動も決められていました。集団と一つであることによって集団に守られていたのでしょう。

しかし近代以降、個人が自覚され、自己の自由の大切さが自覚されるにしたがって、自由は弱肉強食の自由競争、利己的な拡大へと進むようになった。

個の覚醒、発展は人間の自然性だと思います。しかし人の存在はそれ一つではない。いつも自然界、人間社会の中の切り離せない存在ですから、あくまで他者があって自分も存在している関係の中の存在です。共同や共感がこれも人間の一面でそれなくして社会は存在しないと思います。

この個の存在がだれかは生きることができ、だれかは生きることができないような困難さをもつのだとしたら、そこに文明の質、文化の質が問われないでしょうか。

個人の自由の中に公をどうみいだすか。自己の利益が重要である利己的強大な力が社会を動かすようになったら、力のない人にとっては闇の世界です。

若い彼らがより自由競争が激化した時代の若者であることと無関係ではないと思いました。

未来の社会を決めるのはなにか、二つの選択の問題だと思います。もし人々が真剣に共生の道を選びたいと思うならそれは可能だとわたしは思うのですが、皆様はどう思われるでしょうか。

さらに重要なのが個人と民主主義の問題だと思います。その時、家族制度と宗教の問題も考えたいなと思うのですがどうでしょうか。

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老いの日 つれづれに思う [随想]

 長きにわたって人は作られ成長し人となり歴史を刻む

  ある日こんなことを考えました。
  人の暖かさと冷たさについて

  女とは作られるとボーボワールは言いましたけど、「女とは」というどこからか来る半ば強制の中で作られ生きているのかもしれないと思います。
  そのためにひとたび何かのはずみで本音を叫ぶと強烈になります。ある女の人が「女性って歳をとるほどきつくなるものね」と言ったことがあります。とくに「働いている高齢の女性ってみんなきついし強いわよ」と言った言葉が印象にのこっています。
どこか表面では「女らしく優しく、しとやかに」と意識したり振舞っている人てもひとたび本音を発すると切れる刃物のような鋭さや頑固さをみせたりします。つよいしこりのようなものを奥底にかかえていることを知らされます。
私もいったん物を言うときつくなっているかもと振り返ります。本音で話そうとするとそれが人を傷つけることも相手に嫌悪感を持たせることがあるようです。 
個人はすべての人にとって必要な存在なのではない、必要な人、必要でないときがある。だからすべての人から受け入れられる必要もないし誰かが自分を必要としていないとしても全然問題ではないと誰かが何かの本に書いていたように思います。
「みんなの話を聞いているとあなたはとっても理解されにくい人なんだなと思うとむかし友人に言われたことが有りました。
 わたしはある政治団体に加入していたのですが次第に組織から離れて自分ひとりになりたいと考えるようになりました。その団体の活動に全く賛成できなくなったからというわけではなく、組織の一員としてあることとの間に自分は無理があると思うようになったからだと思います。集団や組織が必要だということも理解していました。  
 そのころ読んでいたユング派の心理学者の本の中に愛情乞食とシュジュギイという言葉をみつけました。私は集団的、社会的な人間というより自分なのだなと思いました。組織を離れると仲間との間に隔たりのようなものができて厚い霧のようなものが覆うようになりました。組織に属しているかどうかに関係なく本音で話そうと思っても目に見えない壁があって何の声もしなくなったのです。それは意識的な無視だったのか、何となく遠くなったということだったのでしょうか。
わたしは自分の日々の生活、生き方に対する疑問、戸惑いなどのほうが意識の中心にあったように思います。本当の民主主義が成熟するにはやはりそこからはじまるのではとこの頃考えています。自分や他の人の暮らしから何が必要か、そこから国の政治にたいしてどう考えて何を望むかが見えてくる。個々人一人ひとりの意識から始まる民主主義社会への過渡期でしょうか。
 個人と公の関係は集団的思考に頼って自分の判断は持たないようにしてきたのが長い間の日本人の生き方でもあったように思います。それでは自分がないことになります。
 個があるとき、そこには他者がある。自他の存在をどう善いものにするかがこれからの世界を決めていくのでしょうか。

 善悪と自由の問題
善と悪、何が善で何が悪か、時により場所により人により、また国の場合も時代においても様々だと思います。万人に共通する、この世界に普遍的な固定的な善悪や自由といったものはないと言っていいのではと思います。
それでも善や悪という意識、自由や不自由の意識というものはある。それでは何から善悪や自由抑圧の問題は始まるのか。
そんなことをずっと考えていました。それは私の中では関係の問題だというような答えになりました。
対象と自分(外の世界も自己内部の世界もある)の関係が良いか、快適かということだったり、自由か、あるいは抑圧を感じるものかその関係の問題だと。
 人間の意識や関係のありかたは変えることができると思います。よいものにしようという努力さえあれば。長い時間が必要かもしれませんが未来を信じたい。それはいつも自分が試されることかもしれないと思います。

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疑問。 [雑感]

 数日寒さ厳しく雨。洗濯ものが乾かないのが憂鬱です。が今日は晴れましたね。よかった!!

二ユースを見ると相変わらず心配になることが多いですね。一番気になるのがガザの様子とウクライナをめぐる戦争。それに北陸の震災被害。

自分の信念のために他人の命をうばっていいのでしょうか。それはどちらの側にも言えることでしょう。まず銃(武器)を置け、私はそう思います。


 お詫び

 パブファンで印刷製本アマゾンで発売の「悲しみがふりつもる」は発売中止にしようと思います。一部修正、書名変更して出版社から

注文販売になります。発売はもう少し先になります。








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デジタル弱者のつぶやき [雑感]

 デジタルという言葉が目に入って気になり始めたのも最近、この一年くらいのことですが今もデジタルとアナログの違いもよく分からない、さらにパソコンやスマホなどの通信機器の使い方もよく分からないまま使っているので問題にぶつかって立ち往生してしまいます。危ない使い方をしていてもわからない場合とよく分からない故にすべて心配になってしまう場合と両方あって、一日の仕事の中で、時間や労力を費やしてしまうことがすくなくありません。

 思うように懸案事項が片付かないのはそのためもあります。危険を察知する能力がない人は一切インターネットやパソコンをやらないことだと周囲には言われてしまうのですが、つかわないのも難しいのが実際。ならわかる範囲の使い方をしながら勉強するしかないですね。

 最近このブログ、いつのまにかナイス表示やコメントが消されていたり、facebookに送信した記事がfacebookで表示されなくなっていたりします。???

 パソコンを立ち上げて操作し始めると何かしら問題にぶつかって半日も、時にはそれ以上解決に時間がかかったりしてしまいます。



 書籍の整理はわたしの懸案事項のひとつ、いつも頭を悩ましてしまいます。捨てられない、もったいないとすれば残したいものとそうでないものの仕分けが必要です。

 雑誌がたまってしまって場所を取っています。民文の過去の号のなかにときどき読んでよかったと思う作品を目にすることがあります。今日読んだ中に「極限の中の人間たち―ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」渥美二郎さんの作品があり読めてよかったと思いました。こういう作品に出合うと場所を取っても捨てられないと思ってしまいます。    





 


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大きなこと、小さなこと [自問自答 いきるについて]

 誰でも明日の世界が明るいものであってほしいと思うと思います。友人と話した時ひとりの人が「私たちは何とかセーフだった最後の世代なのかもしれない」と言い、ある友人は「何とかしたいと思っても個人にできることはもうないから、どうにもならないのよね」と嘆息まじりに言います。私も同感できるところが大きかった。

 若かった時一生懸命に考えたり行動したりした人たちで何も考えずに生きてきたわけではありませんでした。

努力しても、、、。慰めの希望など語っても何にもならない?


 何十年か前まだ若かった時でした。ある時、ある人に「自分の頭の蠅も追えないで社会を考えても仕方ないでしょう」と言われたことが有りました。そのとき私はとても堪えました。そのとおりだと思ったのです。

 自分が生活していること(私)と社会(または周囲)との間に何か問題や疑問があって、すんなりとしないところがありました。

大きいこと(公)と小さいこと(私的領域)あるいは「存在」と私の意識、それらは私の中で理解したり統合するのに長い時間がかかりました。

 

 何十年か前二人の著者の本に出会いました。ひとりはA・Sニイルの著作でもう一人の人はE・レイトンの「大量殺人者の誕生」です。

 A・Sニイルはアイルランド生まれの自由主義教育の教育者で、第一次大戦、第二次大戦のヨーロッパ社会に生きて「自由とは何か」を子どもの教育と実践の中で追及しました。

ドイツの改革教育運動の影響を強く受けたニイルは1923年に南イングランド、ライムㇾギスに移り本格的教育活動を始め、サマーヒルという名のこの学校は「世界一自由な学校」としてはじまりました。


 問題の子の教育から出発したニイルは「問題の子」はいない、あるのは「問題の親」だったことに気づきます。「問題の子」とは不幸な子どもの意味です。問題の親も不幸な子であり親でしょう。

 まったく不幸でない人などあるでしょうか。そもそも不幸な人、幸福な人と分けることが出来るのかも疑問だと思いますが。

 ニイルは「子どもを学校に合わせるのではなく、学校を子どもに合わせる」を理念にしました。


 児童の時に「自由の感覚を奪い取り抑圧された子供」「条件付けによって育てられ、象徴的に去勢されている子どもは大きくなっても終始鎖によって縛り付けられてきたことを気づきえない」

 全世界は若者に自由への権利を与えることを拒否しているとニイルは言います。

 ニイルの言う自由とは愛する自由、遊び、学び、働く自由、必要があれば反逆する自由、さらにまた、宗教や家庭の古い伝統および時代遅れの道徳に従わせられることなく、自分の欲するところによって生活することが出来る自由の意味である。性格を型にはめようとすることは、ゆりかごのうちに始まる。その結果は今日の憎悪と犯罪と戦争との病的な神経症的な世界をつくりだしているとニイルは考えました。

 そして訓練主義の教師や親たちは死せる人々であると同時に子供らのうちにあるすべての美と希望と善を抹殺する力を持つ人々であると考えました。


 ニイルの学校は気まま学校と呼ばれましたが、子どもを抑圧していることに気づいた親たちは子どもに自由をあたえようとしました。しかし、その結果、、、ニイルは自由が理解されていないことこと、自由は放縦ではないことを著作集の中の一巻に記しました。

 自由とは何か、私にはいまも難しい課題です。

  

 孤独のなかで私は泣いた

 自分が無力で非力なことを知っていたから

 自分を大切にするということは

 頑張るべき時、努力すべきことをしっかり理解できるということ

 それも正しく、それが賢さだろう

 他罰的にもならず

 自罰的にもならず

 自分が行く道をさがす

 

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未来はどのようにやってくるのでしょう。 [随想]

 これまでの自分の過去を振り返ると先(未来)ばかりを見ていたのだろうかという反省が出てきます。

もしかしたら日本人の意識が過去と現在を問わないで未来への淡い期待、希望の中に現実を直視することをしないできたのでしょうか。今という事実をどう受け止めるか、感じるかは一人一人異なるでしょう。

 あまり問題がなく充実して生活を楽しんでいるという人もあれば、生と死のはざまで苦しんでいる人もあるでしょう。

その格差がますます大きくなっているように感じます。


 少子化、人口減少、人手不足 いま日本にあらわれている構造は時間をかけて進んできた結果のように思います。

 郷里で農業をしているほぼ同じ年代の人と今朝電話ではなしをしていました。資材の高騰、電気や石油の高騰でコメや果物、野菜などの生産がとても難しくなっているという話をしていました。農業をしようという若者はなくなって、今農業をしている人もみな高齢、農産物は生産のための出費のほうが多くなって今年は作付けをやめようと話し合っているといいます。空き家も多くなり、耕作されている農地も機械を使う大きな耕作者に委託し、耕作放棄地もふえています。そういう話を聞きながら今でも食糧自給率が三十数パーセントという低い日本の将来の食糧はどうなるのだろうかと真剣に考えなければならないと思います。

 地方が元気で豊かでなければ人口減少が続くでしょう。生産も落ちてゆきます。日本の将来はおぼつかないのではないでしょうか。地方こそ財政を投入し、暮らし生産することが出来る政策が必要ではないか。能登地方の今回の大災害もこのことをしめしていないでしょうか。地元の人の頑張りだけでは地方は衰退します。国の政策がもっと地方を豊かにすることに向けられるべきと思います。

 自民党などの献金裏金疑惑は一部の力のある人や富める人がもっと富むための利己的政治であることをしめてしています。このような政治が続くなら日本がますます衰退国になるのは目に見えていると思います。

 若い人も年寄りも勉強して政治を考えましょう。




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高い授業料 [日記]

 クレジットカードの引き落としをみて???

 現地通貨?身に覚えがない請求の引き落としにカード会社に問い合わせしてTEC*JUST、、、という会社の利用だということがわかりました。

 私のように迂闊な利用者はそんなに多くないのかもしれませんが、マイクロソフトに問い合わせをしようとパソコンを検索してヒットした会社でした。

疑問についてのサポート、お試し利用が一回500円でしたのでクレジット情報をいれて質問をしました。そのあと続けて会員になって利用するつもりはなく定額会員の登録もしなかったですがクレジットカード会社の引き落としがされてはじめて毎月の定額会員になっていることがわかりました。調べてみてお試しの利用から一週間以内に解約手続きをしないとそのまま定額会員に移行するらしいのです。会員登録のつもりもなく手続きもしなかったのに定額会員になるなんて私のこれまでの経験ではなかったのでびっくりすると同時に迂闊だったと思いました。

一月になってクレジット会社に問い合わせてわかったのですが、はっきり解約手続きを完了するまで三カ月、口座からの引き落としになってしまいました。万単位の利用していない余計な出費に口惜しい思いです。詐欺に近いと思いましたが、ネットで見ると私と同じように引っかかる人がいるようです。これもなれないデジタル機器による商取引について知る高い授業料になりました。

  いろいろな手続き、買い物、交通移動など生活のあらゆるところのデジタル化が進んでいますがデジタル機器弱者には時間もエネルギーも余計にかかる、手も足も出ない、生活自体ができない状況ができています。

 直接相手の顔も声もわからないで数字やボタンと初めて聞く用語だけ。ガラケーでは電話で話せたけれどスマホになって電話で話すことも出来なくなったという声をよく聞きます。

 機械操作に弱い人、私のような失敗をしないですみますようと思います。

 

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悪の凡庸さ [自問自答 いきるについて]

 人類滅亡まで90秒と聞いたとき心の中のどこかで悲鳴と絶望みたいなものを感じました。いろいろな感情、思考がひしめき右往左往して終止符が付かない状態になっています。焦ってはいけないと思いつつ、ゆっくり、一つ一つ整理して、残った時間に自分の疑問に答えをみつける残務整理です。いつ何があるか、どこへ流れつくかわかりません。でもそれが私の課題の残務整理です。 

 いつの時代でも誰でも、どんな立場状況にあっても個人は考え、その人なりに努力しながら生きてきたのでしょう。今という時代の感じ方も皆一人一人違い、存在の仕方もさまざまです。が、同じ時代を生きている。誰も同時なのですが個人の意識(世界)は世界が広大無辺なほどにそれぞれ違い、その個人が世界を構成している。

 人類滅亡まで90秒といわれたとき、どうしたら世界が明るい未来につながるのだろうかと一人の個人として考えずにいられませんでした。

 ガザでのむごたらしい虐殺と破壊の映像を目にするとき、また世界、国内のさまざまなニュースを目にするとき果たして何が人間を分け、争い、殺し合いを繰り返しているのだろうと感じてしまいます。

 実は2017年、人類滅亡までの時間が30秒縮められたそうです。それはアメリカでトランプ氏が大統領になったときです。そして今ふたたびトランプ氏が大統領に返り咲くかどうかがアメリカの最大の関心になっています。アメリカに限らず、ヨーロッパはアメリカの強いアメリカ、自国の利益第一主義に脅威と警戒を強めているそうです。トランプ氏は何を代表しているのかというと強大な利己ではないかと思います。弱者、社会の利益や自分の利益にならないものへの蔑視や排除なのでしょう。アメリカが世界の中での地位を弱め、自国の経済の不安定を増す中でアメリカの中には指導層ばかりでなく、一般国民の中にも強さへの信仰や自己主義、独裁的権威などを求める力がつよくなってきています。こういう動きはアメリカに限らず、どの国民の中にも、個人の中にもあるもので、個人の世界(彼の世界)は利己的なものです。しかし、他者なしに世界は存在しない、自分は他者と同じなのだと知るとき、自他の存在、命の尊重なしに世界は成り立ちえない、自己の利益のために他者を自分の利益のために使うことを考えるなら人類滅亡を早める以外にないのではないかと思います。

 「悪」の凡庸さということをネットで調べました。

 悪とはなにか、考えたいと思います。

 




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「眼」と懐疑 [随想]

 読書はあまり活動的でなくさらに体も次第に動けなくなり始めている「井の中の蛙」である私には一番の趣味です。読書は著者との私の中の会話です。もっとも著者は読者を知らないのですから一方的な関係ともいえますね。

 民主文学一月号、二月号からそれぞれが印象に残った作品について感想を出し合う少人数の読書会をしました。

私がとりあげた作品は「夢のあとさき」佐多暢子、「狐づら」田本真啓、「ほどけない、けど結ばれない」杉山成子の三作品。まだその時読んでいなかった作品もあり、その一つ「フツウ高校」は読み終わってみるととても印象深い作品でした。夏目漱石の「坊ちゃん」を思い浮かべるような痛快な作品でした。

 教育という問題は人と社会の未来を左右します。誰もが将来に不安を感じている現代社会にあって重要な問題だと思いますが、作品の先生「僕」は教育って何か、ズバリズバリ、ばったばったと問題の闇を切り開いてゆきます。

 三作品とも教育という現代が抱える問題について考えさせる作品だと思いました。

 「夢のあとさき」は全国制覇を狙えるところまで強くなったバレーボール部の部活が物語の中心なのですが、高校のスポーツ部活のありかたにとどまらない社会全体にある重要なテーマにとりくんでいます。とりわけ私が考えさせられたのは少子化が進む中で、進学率の高さや個性的な教育内容を打ち出した高校、運動部の好成績、外国への留学などそれぞれの高校の独自性を打ち出さなければ生徒が集まらなくなったなかでの日本の教育の問題です。

 運動部の活動に注力することになった私立高校の教師、克彦が学生時代バレーボールの選手だったことからバレーボール部の指導を任されることになります。それまであまり振るわなかった成績が五年後には市の優勝を狙うチームになり、やがて全国の強豪校の一角に。あとは全国優勝を果たすだけというところまできて体罰という問題が浮上します。私が注目したのは作品にあらわされる信念という問題でした。全国の強豪校、優勝を争うような成績を残すまでにバレー部を指導してきた克彦には将来のために「今やるべきことは苦しくてもやる。それが人間の成長である。経験の浅い子どものことを考えて、その課題を見つけ、達成させるのが大人の役目」という信念がありました。好きなことを好きな時に好きなようにやるだけじゃ、努力も我慢も身につかないだろうと考えています。

信念を貫くことは並大抵のことではできない、そういう先生の指導は厳しく、ときに言動が荒っぽくなったり、体罰に受け取られるような指導もはいったりしました。生徒から体罰の訴えを受けて克彦は葛藤します。

 反省しなければならないことはなにか。自分の言動が間違いだったと気づかなければ反省はできません。作品冒頭に国会議員が記者団に追いかけられ「深く反省しております」と軽く一礼して後は一言も発しないで部屋に消える場面がでてきます。相手にたいして罪の意識が持てなければ謝罪はできません。形だけの謝罪しか思いつきません。

 信念の中身の妥当性、信念と行動がつながるときの齟齬、相手との関係(信念の押し付けか、相手を理解しているか、考え方の違い)などは私もとても悩んだことでした。この作品これらの問題を一緒に考えさせる作品でした。

 自分と存在(世界、あるいは社会)はいつもそこに簡単でない問題があります。その距離、隔たりに疑問を持って向き合う懐疑と行動は生きることそのものなのかと思います。懐疑することの重要さ、それこそ人間らしい行為ではないかと思いました。

 

  


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本を出す。

 本を「作る」と「出す」は当然意味が違います。本を作る、つまり書くことには抵抗がなくても、出すということになると一挙にハードルが高くなってしまいます。

人生の晩年になってどうしても自分が生きてきた昭和、平成、令和という時代の、自分の目に映った変化を書き残したい、それは自分のこれまでをしっかり整理しとらえ直したいという気持ちからでした。その意味では書いて、本にすればそれで済むことなのですが、私以外の誰かが読むかどうかは別として本にして残したい、もし読みたいという人があれば読むことが出来る形にしたいという気持ちもありました。本にして他の人の目にふれるようにするということになるととてつもなく壁が高くなってしまいます。何かの賞に応募するという方法もありますが選ばれなければ本にはなりません。自費出版という形もありますが、出版社を通すと数十万から百万単位のお金がかかるようです。無一文の人には無理なことです。そこで私が選んだのは印刷製本だけを他に頼み、個人出版する方法だったのですが、出版(販売する)ということになるともともと内向的な私は悩んでしまいました。

 内容的に読まれるだけの価値があるのか自信がありません。出来上がってきた見本を見た息子に「誰が読むの」と言われて「そうだよね」とぺしゃんこになりました。

 今時1650円(税込み)だして見ず知らずの本など買おうという人があるとは思えませんが、一番恐れるのは買って読んだ人をガッカリさせることです。

同時代を生きてきた人達、全く別の時代を生きているかのような新しい世代、これからの人達とどこかに共通する、語り交流するところが少しでもあればと思います。

充分書けたとは自分でも思っていないのですが、清水から飛び降りた気持ちで出版という形をとりました。


 「悲しみがふりつもる」

 著者田村亜矢

 印刷製本パブファン 販売アマゾン 定価1500円、所得税150円

 

 内容: 親、家族、個人と時代、自由とは何だろうか。親世代と子世代が社会、時代の変化の中で悩み、悪戦苦闘する家族それぞれをとおして生きるとは何だろうかを考えました。

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待ちに待った一報 [日記]

 今年正月は体調を崩して正月の行事はすべてなしで始まった。八十年この方生きてきて初めてのことでした。

今はほとんど以前に戻って普通の生活ができるようになりました。日常の家事もさぼりにさぼっていた時、読んでいた新潮2023・9月号に掲載されている池澤夏樹さんの「艱難辛苦の十三カ月」これは井上卓也著「満州難民」の井上喜代さんについての記述を小説化したもの、鶴岡征雄「夏の客」などが心に残り、一気に子供、少年だった時代にもどされました。その時代のことが思いだされます。

 当時の子供、青年と現在の子供や青年たちどうちがっているでしょうか。若い世代の作品集を読みながら彼らの内面と時代の変化について考えさせられています。

 個人と時代というのは私がよく考えるテーマです。それと自由とは何か、真理や希望ということについても。ガザの映像、その惨さにニュースを見るのが苦しくなります。これがジェノサイドでなくてなんだろうと思います。

人間はなぜ、八十年も前の歴史と同じ殺戮と破壊を繰り返しているのでしょうか。


 

 原稿を書くことから編集、校正まですべて自分で行う手作りの本がやっと出来上がりました。印刷製本はパブファンに依頼しました。慣れないパソコン作業でもあったので私にとっては懸案事項が一つ片付いた嬉しさを感じています。

 出版社を通していないので出来上がりは正直自信はありません。

 夕方遅くなって製本された本が届きました。

 「悲しみがふりつもる」田村亜矢著 定価1500円、所得税150円。1月21日アマゾンから発売です。

 



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明けましておめでとうございます。


 あけましておめでとうございます。


 新年早々の能登半島を中心とした大地震の被害の大きさに言葉もありません。現地の皆様のご苦労に心が痛みます。一日も早い安心が戻りますようお祈りしております。

 昨年秋終わり近く坐骨神経痛で体が動かなくなってしまったのに続いて、風邪をひいたのか、年末は喉の痛みと咳がひどく、声も出なくなってしまい休日緊急診療をうける羽目になってしまいました。

 心も折れてしまい食欲もなく今年初めて正月何の行事もしないでさぼりにさぼりほとんど横になってすごしました。眠りに眠ったからか少しずつ気力がもどり始めました。今年の干支は辰、私は辰年です。何度目の辰年をむかえたことになるのでしょう。

 現在自然も人間社会も当然の進化を遂げてきてその発展の当然の帰結をむかえているのでしょうか。しかしその当然の帰結は一つだけでないことを自覚したいと思います。






 

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2023年もあとわずか。 [日記]

 私にとっての2023年、どんな年だったかと振り返ると疾風怒濤の年だったなと思います。私にとってのですが、今年に限ってというのではなく、これまでの何十年かの生活の成れの果てです。

八十数年暮らしてきた成れの果てです。そしてそれはこの間の時代にも関係していると思います。

今年が間もなく終わろうとしている。そしてくる年はどんな年にしたいのか。何より足元に帰って、原点に返って生活の見直しから始めようと思っています。


 今日は本屋さんで注文していた本を受け取りに行きました。

 医者が教える生活習慣病「薬いらずの特効法」という本です。かねてから名前を知っている何人かの医者によって書かれている本です。

 ついでに「イスラエル」人類史上もっとも厄介な問題という本が目に入ったので買ってきました。


  内科の先生にまさかと思うことが現実になってしまいました。

 「薬を二週間飲まないでくださいと言ったはずです、もう他の先生に診てもらってください」と先生。

 「でも救急車を呼ばなければならない位ひどい全身の筋肉のけいれんと痛みだったのです。こむら返りの薬で明け方に少し楽になりました」とわたし。

 先生から見放されてしまいましたが内科の先生はほかに何人かいらっしゃいます。薬は三か月分処方していただきましたので、その間に元気に暮らせるようにしっかり対策を立てようと思います。


 庭に植わっているキンカンだいぶ色づいてもう少しだいだい色が濃くなったら収穫しようと楽しみにしていたところ、夫にバッサリ切られてしまいました。

 切り落とされてしまった哀れなキンカン、食べてみると結構甘いです。今年は実が多くついていたのですがまだ青さがのこっているものが多く。

 都会に生まれた夫はキンカンなど食べもののうちに入っていないようでまるで眼中にありません。伸びて日陰になると思うのでしょう。昨年も切ってしまいました。

 なんで相談なく切ってしまうのって言ったはずなのに???

 野育ちのわたしと来年もズレまくっている夫婦をやっているかもしれません。


 

 


 


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アイデンティティ、プライド、自己肯定感という問題って厄介。 [日記]

 今朝も実際に起きたのは八時半、いやな感じです。私の欠点は気まま、気分屋、そして好きなことは辛抱強く苦にならないが気が向かないことは必要なことでもやりたくない怠け者で横着。長い経験の中でそのことがはっきりしているがなかなかなおらない。本当は六時に目覚ましが鳴って起床、やらなければならないことは山ほどあるのに。本当はそれが私の理想の生活の仕方、なのに今朝も。六時前に目を覚まし、トイレに行ってから暖かな床のなかで考え事をする。日大のアメフト部の問題も、自民党の政党助成金の記載漏れも日本社会を象徴する事件だなと思ったりしていた。

 アイデンティティ、自己肯定感、プライドってなんだ? 人間の基本感情。しかしこれが曲者。人より優れていたい、勝ちたい、力を持ちたい、社会的に認められ、尊敬されたい、人を動かし左右する力を持ちたい、一番になりたい、これは人間の自己愛であり生命力でもある。

 でもなぜこれが曲者なのか。

 弱肉強食、優劣の争い、支配と被支配の争いは古今東西、瞬時も休みなく繰り返されてきた。今も。ロシアとウクライナの戦争も、イスラエルとパレスチナの戦争も、世界中で、個人の間でも。人は生物の種類としての「人」だけでなく人の間と書いて人間である。人は人の間なのだ。この意味は大きい。

 釈迦は貪、瞋恚 痴の三悪をあきらかにした。際限なく欲すること、怒りや恨みをぶちまけること、無知が人間を毒すると説いた。そして人は自然界とも社会とも結びついていて「同時」であることを考えなくなりがちだし、時には完全に無視すらしてしまう。だからプライドなどというものは自分をも傷つけ、相手をも傷つける曲者である。

 強者は強い自己肯定感、優越感に支えられ自分の優越感が傷つくことを恐れ、常にそれらが守られなければならないからそれを揺るがせるものが現れれば相手を消滅させることも辞さないだろう。

 自分のアイデンティティに敏感なのは強者だけではない。非力な人も自分の理想と現実の間で苦しむことがあるだけでなく、社会から、あるいは他者から存在することを否定されたり攻撃されたりすることでアイデンティティが脅かされる。

 「人間って哀しい存在」だと思う。でもそればかりでいいはずはない。別の道、生き方があるに違いないと思う。

 

 






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やっぱり変なことの続きです。

IMG_20231203_160923 サイズ縮小.jpg 時々、自分でも大丈夫?と思ってしまうことが。


 本が印刷製本されて届きました。 やったー!

 でもやっぱり一抹の不安が的中。表題紙と裏表紙が反対。こんな本見たことない!

 この会社はパソコンできる人が利用する会社です。裏表が反対になったのは私のミス。販売するつもりでなく十冊だけ印刷したので、読みたいという友人にあげるつもりでした。ケチが付くときは重なるものですね。友人に送ったのが日曜日で郵便局が空いていないので二百円切手を貼って送ったところ、重量が超えていて料金不足で三日たって戻ってきました。急がば回れですね。ミス、悲しい!

タイトルが悪かったかな? title変えようかなと思います。


パソコンの勉強が少しできました。

 

 やっぱり人間の体ってわからないですね。

 夜全身痛んでまるで動けません。トイレに行きたいけどちょっと足を動かそうとすると鋭い痛みとはげしい痙攣、まるで身動きができません。そろりそろり、何とか脚を布団からだし、起き上がろうとしても体を起こすことができません。何分か格闘してやっと頭の上にあった机にかじりついて立ち上がることができました。実は足が痛くて歩行が難しくなっていたのでかかりつけの病院の先生に相談したとき原因を調べるため薬を二週間全部やめてみましょうと言われたのですが、やめて三日目のことでした。私が薬の副作用を心配したからです。しかしこの痛みではなんとかしなければなりません。夜中にパソコンを開いて飲んでいた薬についての説明を読みました。自分の今の症状にあう薬だと思い自己判断、自己責任でこむら返りの薬と血流をよくする薬を飲んで寝ました。じっとして時間が数時間が過ぎるうちに朝が来て痛みがほとんどなくなっていました。体も暖かい。この時この薬は有効だったのです。何とかその日整形外科まで行くことができて骨粗しょう症の診断と薬を処方されました。

 耳の聞こえが悪いので耳鼻科で処方された薬、整形外科で処方された薬、内科でもらっていた薬、ああ、どれを飲んだらよいのか、わからなくなってしまいました。

 お医者さんが処方する薬はそのとおり全部飲むという人もあるでしょう。それが正しいのかもしれません。私は医者から見たら可愛くない、困った患者になるのでしょうね。でもここはそんなことを考えていられない。血流をよくする薬と痙攣が起きたときだけ芍薬甘草湯をのんで、様子を見ようと思いました。

 医者の指示どおりにしないならもうあなたを見ないと叱られるかもしれません。でも自分の責任で決めるしかない、悪い結果が出たらそれはそれで自分の責任と思いました。

 幸い痛みはほとんどなくなりました。なんであんな痛みが出ていつの間にか納まるのか今も謎です。

 今日は整形外科の初めてのリハビリ、整形外科と内科との連携がこれから出来そうでほっとしました。


 年を取ると哀しいことが多くなります。自分にできることがどんどん限定されるようになることもですが、いま世界でおこっていることをみると人間は進歩しているのですかと思います。戦国時代、封建時代の領主にもいろいろな領主がいたでしようが多くの領主の支配の原則は生かさず殺さずでした。民が死んでしまったら食べ物を作る人もなくなってしまうからです。でもいまは直接物を作る人はどんどん少なくて済むようになっています。これからますますそうなっていくのでしょう。ガザでどれほどの命が奪われようと、赤ん坊や子供が死んでも意にかえさない、命が問題なのではないのでしょう。経済成長がなければ世界は、人類は不幸になると信じられています。この経済成長誰のための経済成長でしょう。

 命は「同時」であり、世界はメルビュスの輪なのだと思います。どんな命も「同時」ということ気づきたい、そのことについてどう思われるでしょう。 







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生活習慣病のなれのはて

 就寝中から全身が痛くて動かしにくい。そろりそろり体の向きを変えようとしたり、足を動かそうとすると棒のように膠着していて激しい痛みがはしる。トイレに行くため起き上がるのもやっとだった。

 なぜ、こんなに急激に全身が?前日まで買い物にも行っていた。気になる症状がなかったわけではない。ただこれほど酷くなかっただけだったと今は気づく。気になる脂質異常を注意されたのは40代からで動脈硬化症は一番気になっていた。

閉塞性動脈硬化症かもしれないと思った。「知らないと怖い閉塞性動脈硬化症」池田宇一・宮下祐介を読むと全くその通りだった。

 生活習慣病ってなに? 生活全体、生きていることすべての結果なのだということもはっきりしてくる。

布団から起き上がれなくなったその日、テレビ朝日モーニングショウで大谷義夫医師が座っている時間が二時間増えるごとに死に近くづくという話をされていて私のこの数カ月の暮らしそのものだった。なぜ急激な悪化につながったのかが分かったと思う。

 日常生活でもいろいろ問題にぶつかるし、社会や世界を見ると暗い気持ちになる。

 ガザの映像、これが人間のやることだろうか。まともな人間にできることかと思う。何が人間を悪魔にすることができるのだろうか。相手を抹殺しなければならないと信じるまでの強固な不信がなぜ生まれるのかをしっかり考えなければならないと思う。かってユダヤの人々は民族浄化の対象にされた。どこまで行っても消すことが出来ない痛みである。分断と不信の世界、これからの世界が同じ過ちの世界であってはならないのではないかと思う。

 




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油断大敵ですね。

    ある報道番組を見ていた時おやっと思うことが有りました。その時出席していたコメンテーターのだれもが日本やアメリカのように成熟した民主主義の国と独裁国家では、、、と分けていて、日本やアメリカが成熟した民主主義の国という認識を誰もが共有しているようなので、とても驚きました。「成熟した民主主義」ってなんだろうか、そもそも「民主主義」って何だろうかと思いました。

 政治制度としての民主的代議制度という意味なら別の話です。

 しかし本来目指した民主主義の意味はどうでしょうか。ある障碍者施設で多数の障碍者が殺害された事件がありました。犯人は優性思想の持主と言われます。命の評価やそれに基づく選択はだれでも、いつの時代にもどこの国でも行われていて本来の成熟した民主主義はまだまだ未達成です。逆に独裁にも転嫁しうる恐ろしさを含んでいると思います。力の対決が相手の生存を消滅させる危険を絶えず含んでいるのが現在の世界といっていいのではないかと思います。

ダブルスタンダードになる危険性をもつのが人間だと思います。民主主義が利己的なダブルスタンダードから真の民主主義の世界を目指してほしいなと思います。



 手作りの本を作ろうと思い校正から装丁までをパソコンで編集、ずいぶんmicrosoftやAUのサポートの皆さんに助けていただきました。やっと私家版の印刷にまわすまでになりました。慣れないパソコン操作に一難去ってまた一難の連続で随分時間がかかりました。本のタイトルは「悲しみがふりつもる」にしました。十年くらいまえに出版した「非力」の改題増補で一部内容が重なります。販売を今目的に考えていませんが希望される方がありましたらお送りすることができます。厳しいご感想でもいただけましたら大歓迎、感謝です。連絡があればわたしのemailを送ります。


 パブファンで印刷をお願いしたのですが、申し込みを完了するまでにまた悪戦苦闘、慣れないパソコンでの操作は大変なエネルギーと時間がかかり、この数カ月はほかのことをそっちのけにして掛かり切り。

やっと終わった翌日、全身の痛み、足の痛みで布団から起き上がることができなくなりました。トイレに行くための階段の上がり降りもやっと這うようにしてできました。

 なぜ?どうしてこんなに急激に動かなくなってしまったのか、もしかしたらこのまま動けなくなるのだろうかと心配になりましたが、理由がわかりました。

 本と読むか、パソコンにかかりきりになるか、一休みをするときはソファで昼寝。歩数計は二けたの日も。

 今朝、テレビ朝日のモーニングショウを見ていて納得しました。生活習慣病の危険因子を持っている高齢者は座り切りの生活、運動不足が急激な悪化につながることを知りました。油断大敵ですね。皆様もお気を付けください。

 

 

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今、昔、そして明日 その八 [考えること]

  人間の自然性を超えた文明の発展。それは調和を破壊していないだろうか。そのいびつな発展は人間自らが招いている。それに気づくためには静かでゆっくりした思索の時間が必要なように思える。

親子、兄弟でも別々の個人、私はやっと彼らとの関係についてあるところに届いたように思う。彼らの幸せを祈りながら、私は自分の道を進むということに。境界をはっきりさせること。私は私で他のだれでもない。その人間には二つの課題があると思う。一つは自分の暮らしを成り立つようにすること。それと二つ目は他の人の幸福を考えること。それはどちらの幸福もかなえる道である。


伝統文化、組織文化について

教育、認識と価値判断も一面的偏見、思い込み、差別や否定、依存性から解放されていないし自由ではない。序列化、分断、競争、過剰最適化、依存と拘束、生きにくさ、死をたえず生み出している。

生存と社会は切り離すことができず、伝統文化も一体、不離不測だと言える。その伝統文化も変化するのは人間が一定不変でなく、その人間がつくりだしているからで、この伝統文化も事実、現実、理解、受け止める、価値の順位づけをしない、無所有という観点にたって絶えず人と自然、宇宙を壊さない生き方や人間の在り方という視点で再考され続けなければならないと思う。


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