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危機管理、自己責任の意味は? [自問自答]

 今朝の朝日耕論「シェアの未来」に大塚英志氏が「翼賛に通じる共有賛美」という記事をかかれています。


 ーーーそもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、解決の責任が社会にあるという意味だった。社会とは本来、責任をシェアする場であり、シェアした責任を遂行するシステムが「国」。それが今は、格差も貧困も自己責任論がまかりとおっている。

 とても同感です。

 自己責任と考えることによって問題についての社会の責任が失われています。

 

 では自己責任についてどう考えるか


  私は自己責任はあると思っています。それは安全管理、自分を守ること、あるいは大切な他人を守ることをしなければならないと思うからです。それで安全管理ができるということではないのですが。

 以前、1.5から4で「自然の中に自由はない」の中で自問したことなのですが、21世紀の倫理のなかで柄谷行人氏が人は社会的な因果性の中のことで、「原因に規定されない純粋な自由などはない」「個々人は諸関係の所産でありながら、それを超越したかのようにふるまうことができる。認識しょうとする意思のみが自由である」ということを述べていらっしゃいますが、自然的社会的因果性をカッコに入れ、主体的であることによってのみ、自由や責任が生まれると書かれていましたが、とても納得でした。


 社会的責任が個人の自己責任に転嫁され、社会的に弱者であるものが切り捨てられる現実の中で、それでも生きるためには自分を守る、他人を守る、生きること生かすことを探求し続ける外ないのではないでしょうか。

 「自由であれ、真に主体であれ」これは柄谷氏の本の中の言葉ですが、今一人ひとりに求められていることのように思います。

 

 

 

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