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天井知らずと底なし? [雑感]

 

 今年は人間が自由に耐えられるほど賢い生き物なのだろうか、しかし自分には今も自己選択は重要な価値であるといわれた柴田翔さんの言葉を何度も繰り返し思いだした一年でした。

オウム真理教による地下鉄サリン事件があった年の新聞記事で読んだ言葉です。

 安倍政権が菅政権に変わろうとしたころ、ブログで「シンプルなこと」という感想を書きました。


 新資本主義の自由競争が調和を作るという楽天的見方が妥当だったのかが今問われている。徹底した天皇制の下で、天子の子、しもべとして、国のためという規範や倫理が国家によってきめられていた戦前にくらべ、戦後個人主義、自由、主権が尊重される時代になったといっても、それは欲望の解放と弱肉強食の世界にかわったということで公共はゆがんでいるのかもしれません。自由にどんな枠が必要か。自他の尊重、命の尊重などが失われたら人が生きることが難しい世界にちかづき、強い者だけが生き残り、弱者が生きることができない社会になる。少子化も過疎化も自然破壊も進むでしょう。それでいいのだろうかと疑問です。
 まるでそこに大義があるかのように国民の目に見えないところで政治も政策も進められること、これが民主主義政治なのかと思います。
  

 菅政権に代わってもその感じはあまりかわりません。

 政治にたいする失望感、絶望感すら強くなるばかりで、あまり本音など言いたくないなと思います。明るい希望にほど遠いことをだれが目耳にしたいでしょう。明日は明るいと信じたいし、そう信じなければ生きていく勇気もでません。

これからの子どもたちの未来が明るいものであってほしい、そう願わずに生きることもできません。

 コロナの影響で日々の暮らしさえ危機においこまれている人がいる一方で、株は最高高値を更新中というニュースを聞くと世界も日本もコントロール不能に陥っている飛行機のようなイメージがついてきて、そんなイメージに左右されずに個人はしっかり真っ当をもとめて自分の操縦かんを握る覚悟をしなければといけないんだろうと、でも個人にできることなんて、そもそも限られていて幻想みたいなものかもしれないけれどその限られたことを覚悟をもってやるしかないのだろうと思っていました。

 今年は個人的にも身辺で厳しい年でした。

 苦しいから辛いから答えを探していろいろな本を読みました。本を読む人と読まない人がはっきり分かれる傾向になっているという新聞記事をみたことがありますが、本など読んでも何の足しにもならない、そんなことに時間をとられるより実学を重んじるという人も多いのだろうなとは感じます。

実学の中で疑問を解消でき答えを得ている人もあるのだろうと思います。

 でもだれもがそうなのではありません。

 暗いこと、嫌なことからは逃げたいという気持ちが働きますが、それが事実なら逃げても仕方がないことですし、では暗い気持ちに閉じ込められて身動きが取れなくなることがよいのかと言えばそれも良くありません。どちらかではない、重心をしっかり保って都合のよいことも悪いことも、柔軟に右にも左にも臨機応変に動けることがたいせつなのだろうと思います。

 そう思いながら読み直している本があります。

 何十年か前まだ仕事についていたころ、仕事と家事、子どもの問題といっぱいいっぱいの状態で、体もあちこち不調でいつ重大な病気になってもおかしくない状況でした。その時安保徹さんの「病気は自分で治す」という本と出合ったのでした。目から鱗が落ちたような感動でした。

 人間の体は多細胞生物で調節系(自律神経系)や生体防御系(白血球系)などの体全体に及ぶシステムを持っているが、この巨大で巧妙なシステムが破綻したとき病気になるのではないか、そのシステムの破綻の原因は人間の生き方にあるという安保先生の言葉はそれからの自分の生活と健康を考える指針になりました。


 「病気は自分で治す」から安保先生の言われていることを一部紹介します。

 今の時代は多くの人が慢性疾患で苦しんでいます。例えば、ガン、膠原病、潰瘍性大腸炎、アトピー性皮膚炎、腰痛、高血圧症など。しかし、このような慢性疾患の病気の原因が突き止められなければ、ガン患者には抗がん剤や放射線照射、膠原病患者には消炎鎮痛剤やステロイドホルモン剤といった治療が施されているが、これらはあくまで対症療法で原因療法ではありません。ほとんどの疾患が患者自身の生き方の偏りに起因します。長時間にわたる労働や心の悩みをずっと抱えているような生活では交感神経が緊張しっぱなしで、やがて血流障害と白血球による組織破壊が起こり、膠原病やガンになってしまいます。このような考え方を理解すれば患者自らが自分で病気をつくっていることに気づくことができます。医療関係者も、患者にとってつらい対症療法は、むしろ病気の治癒にとってマイナスになることを知って、患者の生き方の無理を正し、サポートしてゆく流れにかわってゆくでしょう。


 病気や心の不調の根本的原因は生態防御システムと調節システムなどの破綻という人間の生き方にあるという理解と生き方の偏りに気づく感性を育てることが大切になると思うのですが、偏りに自ら気づくということはそれほど簡単ではありません。例え気づいたとしても社会のシステムの中で生きるしかない人間に偏りをただすことは簡単ではありません。人間社会の文明と文化の問題が問われると思います。

 身内に仕事を休むことが多くなり、職場に行くことができなくなった家族がいます。医者からADHDの診断を受けました。今かかっているお医者さんはADHDはそだってきた環境や経験、親の育て方とかという後天的なことは関係ない生まれて二歳くらいまでにはっきりする脳機能の障害という考え方をされていました。彼はこれまでの辛さの原因が病気にあったと知って救われたように思ったようです。

 しかし辛い症状や障害が先天的な機能障害と安易に考えて本当の原因に目が向かない、ひどい場合は薬に頼る診療が長期化するとしたら困ることです。 kえい

 安保先生の本を読んだりしていたため、性格の特徴は人それぞれと思いますが、脳の機能障害といわれ少し疑問に感じました。これまでの環境や経験のなかで起こっていることと思っていましたので、辛さや苦しさは経験をよく考えてみる事から解決の道も見つかると考えていました。しかし今は医者の診断や本人の気持ちを優先したいと考えています。素人の疑問にこだわって混乱することが避けたいと思っています。


 三十年くらいまえのことです。ある大学の心理学の公開講座を受けたとき、とても驚いたことがありました。

講師は白衣を着ていました。先生は今は精神医学が社会学的なアプローチはあまり重視しないで、身体医学に重点がうつっているといわれ自分も毎日解剖などをやっているといわれました。

 体と心は一つの物、心身一如だと思うのですが、心が身体に与える影響の側面より、脳機能の問題となっている

のが現代の精神医学なのだろうかとその時思いました。

 

 心の健康、体の健康と現代社会、その関係が明らかになることによって社会がもっと人にとって住みやすい社会になってほしいと思います。

 仏教について禅宗のお坊さんが書かれているのを拝見しました。

 ブッダが悟ったのは縁起であり、この縁起を理解する(智慧)を開くことで正見が生じて、世の中を縁起の目で観ることができる。因縁(因果関係)によって結果が生じる。苦にも原因があり、原因がある以上苦の滅尽への方法も存在する。

 シンプルなことというのはすべてが縁起だということ、そして真理はシンプルであるということでもあると思いました。


  仏として生きるから仏である……誰もが仏として生きていける……

仏という存在がいるのではなく、仏の心で生きる人が仏なんだと気づくこと。
それが見性成仏「(自分の)仏性を徹見して仏と成る」という言葉の意味なのではないか。
 鬼になるのも、仏になるのも、自分の心次第だと気づくこと。
 
 仏になるのも鬼になるのも自分の心次第って、ずいぶんきびしい言葉だと思いました。がいつも心にとめておきたい言葉だなと思いました。
  同じシャカの言葉に一即多、多即一という言葉があります。
 この言葉は人について、自分は自分であり同時に全体であるという意味かと思っています。
 個人は世界と無関係ではない、世界の影響の存在としてしか生きることができないということだとすれば、世界と自分について考えなければならないということだと思います。
しばしば仏教の本に他力信仰でも自力信仰の宗教でも世界を生きやすい世界に変えようと考えることはしないという教えを目にします。
 なぜでしょうか、無明だということでしょうか。
 

 心の修養だけで解決できるのかという疑問を感じます。

 

 


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