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懐疑について 信じる事と疑うこと [随想]

 昨夜の地震の揺れはゆすり上げるような強い揺れで長く続きました。火の元は大丈夫かと立ち上がろうと思ったくらい、十年前の東日本大地震を思い出しました。6強ということですから被害がないといいですね。


 専門知識のない素人が自分の心や体の不調をどう直す事ができるか、無理だと考えるのが一般的かもしれません。普通はお医者さんに行きます。では医者に行けば治るかというと治ることもありますが治らない場合があります。医者は普通の人より病気について専門知識も経験も多くて心の病気にしても体の病気にしても直せる可能性は圧倒的に高いと思いますが、その医者も絶対とはいえない。

林郁夫氏は優秀な医者だったと思いますが、それでも医者として直せない無力感からオーム真理教に近づいたくらい、わからないとか無力であることに苦しんだのでしょうか。

 人は不都合なこと、わからないことは苦しいので、逃避するか何かを頼り信じ、安心したいのかもしれないと思います。心身にときには危ういもの、無価値なものにさえ頼ろうとします。

 理想からも安心からもほど遠い現実の中でどう生きたらよいのだろうかと格闘しながら多くの人が抱いている問いではないでしょうか。


 三木清という哲学者の名前を昔聞いたことがありましたが、本を読んだのは初めてです。

角川文庫に収められた「人生論ノート 他二篇」

 いま「語られざる哲学」を読んでいる途中です。こんなにも生きる意味、真実の意味をあきらかに知りたいと求めた哲学者がいたのですね。

 社会や人生に肯定的で明るいこと、希望に満ち確信にあふれていることをだれでも歓迎し、そうありたいと願う一方で

 「私たちが生きている世界は正直に考察されるとき、誰でもが醜悪や不完全さを見出さずにいられない世界である。理想を憧れ求むる心には必ず懐疑が起こらねばならないようなのが現実に経験する世界である」

と書かれているように苦しみが絶えることのない現実です。

 あるままに現実を直視し、そこから出発する以外ないのですが、「懐疑の正しい動機はよき生活への意志であり、懐疑それ自身は消極的、否定的態度であるとしても根本的には積極的肯定的態度である」という三木の言葉のように自然主義者の態度というより理想主義的態度だと思います。

 懐疑の心の根本にあるのはよき生活ということです。よき生活とはどのようものでしょうか。三木はどう考えていたのでしょうか。

 よき生活というのは難問だと思います。一人ひとり考える事が違い、また同じ人間であっても時が変わればその価値観もちがってくることがしばしばです。

 三木清が求めたもの、考えたものはどのようなものだったのでしょうか。


「いかに眞の懐疑が徹底的に正しき動機を持って始められ難いか。眞の懐疑は単に古きものや一般的なるもののみでなく新しきもの、特殊的なるものにも向けられ、一切の外的と他律的と排して純一なる内的と自律的とに向かう努力において成立する。あるいは単に自己以外のもののみならず、自己そのものさえ疑い否定する努力においてはじめて見いだされるのである。私たちが徹底的に懐疑と呼びうるものは実にかくのごとき懐疑である。それゆえに徹底的な懐疑はすべてのものを殺し、従って自己をも殺すことである。

かくのごとき懐疑の後に再びすべてのものを生かし、従って自己をも生かすことができるか否かは、かくのごとき懐疑に生きた人のみが体得しうることであろう」


 懐疑することは自分の人生を、一生を積極的に考え生きる姿勢にほかならず、現在の人生においては罪悪が避けがたい運命であるという悲しい事実を安らかに認めるとともに、いつか善にまで高められ、もしくは善に抱擁される美しい希望をはぐくもうとする努力に他ならないと三木清は考えたのではないだろうかと思いました。

 懐疑することは負けない強い心であり、希望を追求することであり、生き続けることなのではないかと思いました。

 

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