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否定の意味を考える。 [随想]


 最近思うことです。

人にとって基本にあるのは認識の問題ではないだろうかと思います。

生まれたばかりのうちは知覚はあっても自覚や認識はありませんが、次第に物を認識するようになる。目でみて耳で聞いて、手で触り、匂いを嗅いで、つまり様々な感覚を通して人を知り物を知り、さらに成長するにつれて自分と他人を意識するようになる。この感覚を通して世界を物事を認識していく。その認識が人の基本にあるとするなら、どう認識するかが人にとって重要になります。

 認識する力は命であり、命の力は幸せを求める。幸福を求めて人の一生は続くのだろうと思います。


 命が求めるものは幸せである。その幸せをどう実現していくか。それが人の一生の基本だといえるでしょう。


 三木清の人生論ノート、幸福についてを読んで強い印象に残った個所がありました。

 三木清がこの本を書いたのは1938年から1941年までに「文学界」に断続的に掲載されたもので戦前、戦争が始まろうとしたころに書かれているので、次に紹介するように幸福の問題が喪失して倫理が主になったのはそういう時代背景も関係があると思います。


 ーーー今日の人間は幸福についてほとんど考えないようである。試みに近年現れた倫理学書、とりわけ我が国で書かれた倫理学の本を開いてみたまえ。ただの一か所も幸福の問題を取り扱っていない書物を発見することは甚だ容易である。ーーー

 倫理の本から幸福の問題が喪失したことが倫理の混乱につながっている。良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズムであるが、三木はこれに反して今日の良心とは幸福の要求である、幸福の要求ほど良心的なものがあるだろうか。人がヒューマニストであるかどうかは、主としてこの点にかかっているとのべていることはその時代にあって最も大切な重要な主張だったと思います。我々の時代は人々に幸福について考える気力さえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいかという言葉にも心を突かれました。


 倫理から幸福という問題が抜け落ちたとき、倫理の混乱が始まったという鋭い指摘、戦後から現代では幸福論は

むしろ主流の感(功利主義)がありますが、幸福という人間にとって重要な問題が解決したわけではない、もっと別の形で鋭くなっているのではないかと思う今、認識(手段)と幸福の追求(目的)という問題を人の基本として立ち戻ってしっかり考えたいと思いました。

 

 現代の悲惨と欺瞞は分断と格差の構造的進行が進むことにあるのではないかと感じるのですがどうでしょうか。

 

 構造的に分断と格差がなぜ進むのかの問題を考えたいと思います。


 



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