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個であることと公共 [雑感]

 もう何十年か前のこと、数人で旅行先で食事をしていた時でした。私が「父性と母性」ということを考えていますと言ったとき、一人の人が「なんでいつまでも女性は母親から卒業しないんだろう」と疑問をいわれ、もう一人の女性がその意見にとても納得という感じで賛成しました。私は父とか母とかいう意味ではなく、切断と受容とかいう意味ですと補足したのですが、「それは難しい問題だ」ということで其時は終わりました。親としてあの頃からわたしには父性と母性ということはとても難しい悩ましい問題でした。

 父性というのは良しあしの判断のように物事を区切って選択し次に進む働き、母性はすべてを同じものとして受け入れる働き、簡単に言えばそのような意味だろうと思います。

 人誕生の昔から現在まで、人の命ということでは変わりなく、時代により環境や生活の仕方が変わってきたとはいえ、人の根本にあるのは生と死だけと思います。生は命があるということ。

 命がある間どう生きるか。生きているという「存在」していることとどう生きる(目的)の絶え間ない選択。その二つは受容と切断の働きといっていいように思いますが両方があって生きるということは成り立っています。

 

 自分の命と他人の命をどう考え調整するか。人間の歴史がいつも基本に抱えてきた問題だと思います。

 切断する、受容するという父性母性の働きは「個人の働き」の問題です。

そのことは家族間あるいは父と子、母親と子供などの間でも常に存在する問題です。

振り返ると私は自分中心で他者のそれについて認識することがあまり意識的ではなかったなと思います。分かりにくい表現なので、言い換えると子どもは全くの他人、別の人格を持つ個として彼や彼女自身の物事への取捨選択をしながら育ちます。親はあまり子供自身の成長を見ないで自分の物差しや価値判断、それは偏見や先入観のようなものなのですが、自分の主観で別人格である子供を判断していることが多いと思います。


 子供の個人としての独自の生という視線がしっかり認識され、自分も一人の人間としての自己選択をしてしっかり向き合うならもっと好ましかったと思います。それは父性と母性という働きの迷いだったと思います。

 父性愛(切断、区別)と母性愛(存在の受容)は他者とのかかわり、存在へのかかわり方なのだと今は考えているのですが、もう一つ特に最近考えるのは日本社会の特徴とよく言われる「母性社会」ということについてです。

 個人が「父性愛や母性愛を持って個として生きる」ということと、日本の特徴としていわれる「日本の母性社会」ということはどういう関係にあるでしょうか。

 皆さんはどう思われているでしょうか。

 「自分の取捨選択、自分の考えを持って社会の一員として生きる」ということと「自分個人の意見を持つよりも全体の意見に自分を合わせて生きる」、「一個人として社会に参加するか、集団や社会を優先して自分をそれに合わせるか」その両方を混在させながらもどちらかを「主にしている」ということはひとりひとりあるように思います。

どちらの考え方にも良さと欠点があります。前者は自己本位になるリスクがあるし、後者は自分がなく社会任せ、責任のない没個性のリスク、一緒に渡れば怖くないですが、集団が侵した間違いの結果の責任の取り方は簡単ではありませんし、降りかかった結果を自分は引き受けるとしても、それだけで済まない大きな影響を与えることもあります。前者の場合は常に自分の狭隘さから逃れがたいリスクを抱えています。その結果の責任ということも自分にとどまらないことがありますから、どちらにしても常に立ち返って考えてみることが必要になります。

 「集団、全体(公)を大切にする」「社会を作っている一人ひとりを大切にする」、二つの働きが社会の原則ととしてともに必要でしょう。公と個の原則は生命の尊重で、それは言葉を変えると父性と母性の二つの働きということではないでしょうか。

 世界が二度の大戦を経験してその後どう変わったのか。自由、自由競争、「私権」の拡大はもともと利己的である人間の弱肉競争の拡大をもたらしてきました。「私」の拡大と自由競争は物質文明の発展を支えてきた大きな要因であると同時に人間の欲望と公共との対立や矛盾も生んでいます。「私」は全体の一部ですが全体ではないから、利己は偏りだったり他者を無視したりしてしまう危険性を常に持つでしょう。

 自分の欲望のままに他者の存在を失うとどうなるでしょうか。

 モラルハザードといわれる状況は久しい前からいわれてきました。

 今はさらに社会全体の一部、政治や権力機構にまで進んでいる感じがします。それは広範な社会全体の人間破壊、社会の破壊をすすめることになるのではと心配です。

 その時立ち戻る原点はなにかと考えたいと思いました。

日本はもともと母性社会と言われてきたのに対し、アメリカは父性が強い国と言われます。「すべての物事を受け入れ一緒にする」ことと「善悪や好悪などの価値判断を優先する」国共にどちらにもいい面、悪い面があります。日本は必ずしも母性社会ではなく現在は父性が強い社会になりつつあると思います。切断の働きが強ければ、一方を殺すことになり、すべての事象を同じに平等にすれば良しあしが問われなくなります。

今日本の社会は強い父性原理が働く一方でそれと裏腹な自己放棄ともいえる母性原理が進んでいる、それがよいことでしょうか。父性は徹底した命の受容のうえにあるべきで父性も母性も異なる働きを視野におくことでより高い段階に進むのではないかと思います。

 でも受容と切断の価値判断はとても難しい、時に迷いながらしかし自分をつくらなければならないと感じます。







 

  



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