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必要なもの。必要でないもの [日記]

 とうとう80歳の峠を一つ越えた。整理整頓、断捨離をしっかり始めようと思う。これは結構な難事業である。何年も前から考えているのにちっとも進んでいない。必要なこと、必要でない事の順番でいうと、必要の一番目である。終わりは目のまえにあるから。

 今日はワクチンを打つ日。副作用は大丈夫かしら。

 必要なことをしっかり考え、選ぶということはとても重要なことだと気づく。余計なもの、さほど必要としないものに取り囲まれて右往左往している。だから肝心かなめなことがおろそかになる。


 誰かが書いていたか、言っているのか忘れたが、今親ガチャ、子ガチャという言葉がはやっているらしいのだが、どこで、どんな環境に生まれるか個人の選択を超えている。

親子というのは親は子に認められ感謝されて親なのだという。子供もそうなのかもしれない。親に感謝されて初めて子になる。これはなかなか深い、人生をよく知っている人の言葉だと思う。

親子も自他の原点、自他の関係とはそういうものなのだろうと思います。私はまだ子供に認められたり、感謝されたりしていない、生涯を終えるまでそうかもしれない親失格。

 父も母も私にとって普通の良い親だったけれど、父や母をゆるしたり、感謝を伝えたりすることがないまま命を終わったことを申し訳ないと思う。二人ともどんなに寂しい生涯だったろうか。

 あの世などあると思っていないから、せめて自分の心の中で感謝をあたためておこう。



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「考える事は本当に暗くなることか」について思う [日記]

 私は今二冊の本を同時進行で読んでいます。一冊は「考える営みの再生」 ラディカルに哲学する 1で、もう一冊は「大人の引きこもり」見えない息子と暮らした母親たちです。

 二冊とも簡単に読み進めません。何度も何度も繰り返し振り返りながら読んでいます。私にとって、これまでの中心的テーマでした。物心ついたころから70年の歴史を考えることでもありました。

 敗戦後の社会から、そんな時代はとうに忘れられそうなくらいに繁栄と成長をとげ、文明の進化を遂げてきた社会、その歩みをどう見たらよいのでしょうか。

 確かに人々の生活は便利に豊かさを享受しているようにみえます。かつっての戦国時代、封建社会のように家族全員が根だやしに殺されることもあったような時代から、戦前の暮らしに困った厳しい貧困、軍国主義、全体主義のもとでの海外進出と戦争、それらの時代から比べると、比較にならないくらい便利さと豊かさを享受できる社会に進化発展しています。それは人類の到達点として肯定できることと思います。

 しかしその一方で発達した文明社会が深刻な問題を抱えてきていることも事実です。

排外主義と分断、増大する経済格差、命の格差、自然環境の破壊、これらの地球と人類の将来にかかわる深刻な問題をどう解決していくかが今問われています。今の世代が次の世代への責任をもっていると言えることです。

 選挙が目の前に迫っていますが、十年、五十年、あるいは百年先の将来を左右する一歩になるでしょう。


 「考える営みの再生」はラディカルに哲学する全5巻の第一巻で、その序文で佐藤和夫さんは次のようなことをのべています。もし考える事によってどうしようもない苦しみが増すばかりのようなとき、例えば自動車のことを考えたとき、自動車の便利さや運転の快楽に取りつかれた人にとって、人を殺すことになる場合もある恐怖、事故を起こした時支払わなければならない金とか、車の維持費、環境破壊の問題など厄介な問題が起こってきますが、ごちゃごちゃ考えても仕方がないから、考える事はやめてとにかく車を利用して楽しむというように、便利さの陰に考えてもどうしようもないことが含まれています。

私の田舎は車の普及とともに、道路が整備され、多くの家が二台から三台の車を持ち、車なしの生活は考えられなくなりました。しかしそれに伴って、公共の交通手段だったバスはなくなり、自動車の運転をしない子どもや年寄りの足が奪われました。病院や買い物も車で遠くまで行くのですが、誰かに乗せてもらう必要があります。過疎化が進み、休耕田が多くなり、農業をする人が少なくなり、今では農地を持っている人の多くが農業をする人に土地を貸しているそうです。田舎の変化は一面で寂しい感じがします。

 車にとどまらない、あらゆる分野でこのように考えてもどうしようもない、荒廃とも呼べるような危機に向かっている印象があります。その危機は今の日本の深い構造、生活の仕組み全体と結びついていると直感されるだけに、本気でこれらの問題、苦しみと向き合うとしたら、生活の仕方そのものを本格的に吟味し何が問題かをとことん探る以外にないと彼はいいます。

 考える事は本当に暗くなることだろうかと彼は疑問を投げかけています。

 智慧を出し合って考え抜くということは実は以外と楽しいことではないのか。

 仲間同士で自由に語り合う空間を奪われ、みんなが自分のことに汲々としていることが思考の衰退を招いているのではないか。

 佐藤がいうように一人ひとりのかけがえのない思考の営みを尊重しながら、みんなで繋がっていく文化を復興させることができたら現代文明社会が抱える深刻な危機を解決する端緒になるのでは。


 「大人の引きこもり」を読んだことのある人はどんな感想をもたれたでしょうか。引きこもりは甘えである。親や家族に問題があるのではないか、多くの人にとって特殊な個人的問題と思われるかと思います。

 でも私にはそういう個別的特殊な問題とばかりは思えませんでした。彼らはなぜ引きこもりになったのだろうかという疑問は最後まで残りましたし、またなぜその家族だったのかという疑問もおなじように。そうなる原因や要素が個人や家庭にあったと思えると同時にそうならなかった可能性だって十分に考えられるのです。誰にも起こりうる問題なのです。自殺や犯罪などもおなじように些細な風の吹き回しでどこで起こっても不思議ではない社会全体の文化の問題と思いました。

個人の問題は社会全体の問題、人間の問題として全体でとらえなければ個人の力だけでは解決に向かわないのではないかと思います。

 力の強弱や優劣による淘汰ではない、智慧を出し合う、共助の社会こそ人間の未来を救う鍵ではないかと思いますがどう思われますか。





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出口をもとめて  楽観、悲観もどちらも人間的?  [日記]


 


 新聞の切り抜きをしていてこんな記事が目にとまりました。

 「優しくない国。ニッポンの政治経済学」日本人は困っている人を助けないのか。


 おもてなしの国と絶賛される日本、実は世界一優しくない国だった。

 他人を助けない日本人。外国の人を信頼しない日本人。欧米より個人主義的な日本人。

 ・・・・・すべて、紛れもない事実です。

 これは日本人の本来の姿なのか、それとも、どこかで変容してしまったのか?

 日本は「自助」だけの国になるのか・・・・

 

 上の記事は新聞に載っている本の広告です。

 自他、自分と世界という問題

 個という問題と世界、個人という考えが入ってきたのは日本では明治以降といってもまだ新しく個人と社会の関係、意識変化は未熟で、未達成なように思います。自分を含めてです。これはとても難しい課題ですね。


  楽観的、悲観的、楽観にも悲観にも片寄らない。この三つの姿勢の中で、前二つはどちらも現実の人間的だと思います。楽観も悲観も通り越す境地は超人でしょうか。

わたしは悲観的にみえてしまう方だからあまり良くないなと思っています。悲観的な見方はあまり人を幸福にしないから、せめて悲観から楽観へ変わりたいと思うのですが、変われるでしょうか?


 苦についての曹洞宗のお坊さんの言葉。

 三毒は、


 貪   金、物、性を際限なく欲しがる


 目眞  自己中心的な怒り、欲が深いほど怒りはおおきくなる


 痴   愚かなこと、物事を正しく見たり判断できないこと


 ということだそうです。


 以下お坊さんの言葉から


 思い通りに行かないから苦しくなる。求めるから辛くなる。

 煩悩とうまく付き合わないと煩悩に振り回されてたくさんの悩みを抱えながら生きることになってしまう。


 欲望は人間が生きるための本能のエネルギーで、善いものと悪いものがある。悪い欲に振り回されると毒に、善い欲を実行すれば薬に。

 自分が何に対して欲望や執着を抱いているのか、毎日湧き上がる心を注意深く観察する。

 欲求が生まれたら、その欲求をそのまま認め、思うようにいかないと思ったらそういうものだと腹をくくる。

 思いは煩悩ではない。


 物事を自分の思い通りに運ばそうとする自我意識こそ煩悩の原因。

 ものを見て、聞いて。素直にそこで終わる。

 手を加えすぎると煩悩になる。


 悲しみの感情と執着、煩悩、雑念は別。


 自分が何に対して欲望や執着を抱いているのか、毎日湧き上がる心を注意深く観察する。
 欲求が生まれたら、その欲求をそのまま認め、思うようにいかないと思ったらそういうものだと腹をくくる。
 思いは煩悩ではない。
 悲観ではなく、出口を求めて

 ありのまま素の自分こそ「私」で、その自分を大切にすることから始める。思うようにいかないと思ったら、そういうものだと腹をくくる。手を加えすぎると煩悩になる。しっかりみつめて良い欲と悪い欲の判断をする。

 これらの言葉、肝に銘じていたら悲観から少し抜け出ることができるのかなぁ。


 健康について、こんなネット記事も目に入りました。

 【科学で証明!本当に信用できるストレス解消法】#42


全都道府県で、緊急事態宣言が解除されました。再び宣言が発令される可能性もなきにしもあらずでしょうが、ひとまずは、だんだんと人流が活発化していくことが予想されます。今まで家の中で多くの時間を過ごしていた人も、旅行や買い物などを楽しめる。ホッと胸をなで下ろしている人も多いのではないでしょうか?


一方で、ステイホームに慣れてしまい、外出をおっくうに感じてしまう人もいるかもしれません。家から出ずにゲームや動画配信の観賞三昧なんて方も珍しくないと思いますが、アメリカでは「Sitting Kills You」と報道されるほどで、座りっぱなし……つまり体を動かさないと、さまざまな罹患リスクを高めかねないといわれています。適度に体を動かすことは大事なんですね。


実に、日本の成人は1日で平均約7時間座っているといわれ、これは世界一の長さというデータもあります。ただでさえ座りっぱなしの状態が多いというのに、休日もだら~っと動かずにいるのは、お勧めできません。オーストラリアの研究機関によると、1日の総座位時間が4時間未満の成人に比べて、8~11時間の人では死亡リスクが15%増、11時間以上だと40%増という話もあります。


さらに、米ハーバード大学医学部のリーらによる座位行動に関する研究(2012年)では、「動かずに座りっぱなしの時間が長いと、心臓病6%、糖尿病7%、乳がん10%、大腸がん10%、それぞれ罹患リスクが上昇する」と指摘されています。


座りっぱなしを控えることで、早期死亡率の9%を縮小でき、座りっぱなしの人が10~25%ほど歩く機会を増やせば、毎年50万~130万人ほどの人が死亡リスクを回避できる可能性があるとも述べています。


体を動かすようにできている脳を有するのが、人間です。そもそも、脳をはじめとする中枢神経は「体を移動させる」ためのものであるという意見もあります。


そのため、座り続けていると記憶力低下や注意力散漫といった弊害が発生し始め、日中に体をある程度動かさないと交感神経と副交感神経の交代がうまく行われず、結果、自律神経が乱れて夜にしっかり休めない。夜間に回復がはかどらない分、疲れやストレスがたまりやすくなるというわけです。座りっぱなしは「ストレスの天敵」とも言えるのです。


人間は立っているだけで1時間に50キロカロリーほど消費しますし、健康のためにも、仕事の効率化という意味でも、立っている時間を増やすことはとても良さそうです。


近年、グーグルやフェイスブックなどの企業がスタンディングデスクを導入していますが、テキサスA&M大学のメータらが行った実験(2015年)では、34人の高校生に24週間にわたってスタンディングデスクを使ってもらったところ、脳の実行機能とワーキングメモリーに改善が見られました。


外出しやすくなった今だからこそ、適度に体を動かす習慣を身に付けるチャンス。生活の中で座りっぱなしの時間が多い人は、特に意識してみてください。





 

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自分でできる事から考える。 [日記]

 

 予測不可能な変化の時代を迎えています。今まであった自然が今までと変わり、当たり前に思われていた人と人の関係とか生活がすさまじい変化をとげている、何がそういう変化をもたらしてきたのだろうと考えると、人間の太古から現代までの歴史の発展をみるとその到達点は当たりまえ、自然の理に適っているのだろうと思えてきます。

変えているのは主に人間でしょう。でもその自然の理が自然の破壊や人類の滅亡や勝者と敗者のさらなる加速化や分断に進むなら、それを進めている人間の生き方が望ましかったと言えるでしょうか。

 人の生き方はつねに二通りあると思います。また歴史も二つの力の戦いの歴史でもあったのではないかと思います。

 昨日たまたま、夫がジョン・フォード監督の「リバティ・バランスを撃った男」というアメリカの開拓当時

の映画をつけていたので私も最後まで見てしまいました。歴史はどのように進んできたのかを考えさせられるような映画でした。

 予測不能のような将来をどういう生き方の選択をしながらしぶとく生きるか、自分で考えるしかありません。

 二、三日まえ羽鳥モーニングショウで「老化を遅らせる最新研究」老化についてをとりあげていました。

老けるのは嫌だとか長生きしたいとかあまり思わないのですが、命を粗末にしたくないとは思います。

数日前、ぎっくり腰で入院する羽目になりました。

50近くなって、これ以上仕事を続けることはできないと思って仕事をやめたとき、「病気は自分で治す』という本に出会って、気分はルンルン、新しい生活を意気軒昂はじめたのでしたが、勿論はじめの見通しのように一直線ではありません。一番生活設計がちがったのはバブルの崩壊後に続く経済の落ち込みや長い停滞と社会や生活の急速な変化です。

 「病気は自分で治す」ということも具体的になると簡単に答えがみつかるわけではありません。


 最近の細胞や分子の研究は一日一日のめざましい進歩で細胞の細かい仕組みや働きが解明され、病気の治療や健康の維持に大変役立っているようです。

 しかし治療は病気になったときの対症療法でなぜ病気になるのかの原因や予防にはまだ届いていない、不十分ということができるのでしょう。

 多くの人が苦しんでいる慢性疾患、ガン、膠原病、潰瘍性大腸炎、アトピー性皮膚炎、腰痛、高血圧、さらに多くなっている精神疾患、生きにくさなどはなかなか治癒に至らないことが多いのが現状で、安保先生は「調節系」(「自律神経系」)や「生体防御系」(「白血球系」)などの体全体に及ぶシステムの破綻につながっている点に注目されています。

 巨大で巧妙なシステムが初めから破綻しているのではなく、破綻している理由が考えられる。それは人間の生き方が大きくかかわっているのではないかと安保先生は考えられています。

 人間は生命進化の過程で大きな能力を獲得してきたが、脳が進化し賢くなりすぎて、本来備わっている能力以上の無理な生き方を長年にわたって続けている、それが病気につながる。進化の過程で獲得した能力を充分に使わない生き方を選べば、その機能は衰えるばかり。運動不足や肥満の流れ、活力のない生き方などこちらに入る。

 能力の限界を超えてしまったり、逆に、機能を使わな過ぎてしまったりといった生き方が「自律神経系」や「白血球系」の正常な働きを阻害し病気につながると考えれば、生き方の偏りを修正する努力が必要という指摘をされています。この指摘は自分の生活を考えてみてわたしにはとても納得できることでした。

 患者自らが自分から病気を作っていることに気づき、それまでの生き方を変えることによって、現在までの医療の弱点と「患者責任」の考え方を学んでほしいと安保先生はいいます。病気は私たちの生き方や考え方をただすために現れた光明だとさえいえるというのはそうなのだなと思います。

 経済だけから人間を考える事はできない、経済も重要ですが、もっともっとトータルに人間を考えなければならないと思います。 

 自分にできること、したいことは努力することだけ。結果は個人の意思を超えたものです。考え努力をすることだけが生きることのように思います。

 三つのうち、一個くらいしかできなかったとしても頑張った結果ならそれで仕方がない、五つ位その日のうちにやりたいと朝決めたとして、一日が終わってみると三つくらいしかできていなかったとしたら? それでもやろうと思って努力した結果ならそれでOK。一つもできていなかったら、さてどうしましょうか。これではいやだ。明日はもっと頑張ろうと。頑張ろうと努力しないなら、わたしは生きる意味がないと思いますが、これでは緩い?

 いつの日か、体が動かないときがくるのかもしれません。その時のことはその時になってみないとわからないでしょうね。

 年齢や立場によって、考える事、考えなければならないことは違うでしょう。子どもたち、若者、働き盛りの人、きっと私のような老齢者にない立場で苦労の多い生活をし努力されているのだろうなと思います。

 

 最近目に留まった言葉から。


 生成する世界は「論理」をしのぐ。だからこそ論理的に断定するより先に、絡み合った現象のはざまでまずは真摯に問いかける事。

論理はビィジョンを後から根拠づけるにすぎない。       朝日新聞「折々の言葉」、ウイリアム・ジェイムス

 

 

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入院あれこれ [日記]

 解散、総選挙になりましたね。これまでの政治についての評価と未来を決める選挙ですね。

最近あまり政治やニュースに関心が持てないでいました。目先のことだけでなく、何かもっともっとよく考えなければならない事がたくさんあるような気がしています。

しかし、あまりに今不幸に慣れ親しんでしまっている、不幸から抜ける努力、不幸から脱出する方法を真剣に考える時期、今回の国政選挙もその大事な一つの契機となると思っています。

 入院中、林真理子さんの「小説8050」を読んでいました。診察から突然そのままの入院になったので、何か読むものを持ってきてほしいと頼んだら、この本他数冊を持ってきてくれたのですが、一度読んでいました。

再度読んでみて、物語なので細部でリアルではないなと感じるところがありましたが、重要なところを抑えていてこの問題について随分考えさせられます。

 もっとよく考えなければと思うことって書きましたが、その一つが自分について考える事です。

 退院時に午前中仕事を終わせて娘が来てくれましたので、昼食を一緒にしました。病院食は薄味と老人向けの調理で、がっつりしたものを食べたいと焼き肉に。

 話しているうちに娘と喧嘩になり最後に泣いてしまいました。なぜそこでなくのよと娘を当惑困惑させてしましたが、あとで自分をはっきり理解すること、人と違う自分をはっきり知ることや理解すること、認めることであると思いました。そこから周囲や世界との関係が始まるのです。どう始まるのか、まだわかりませんが。

 

 


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