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2019-10-15 [雑感]


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  すこしづつ季節がうつりかわっていくようです。



  台風の被害から一日も早い復旧を祈ります。





 近くで行われている仏教講座に通い始めて、人から聞くことがほとんどなかったので新鮮です。

蒔かぬ種は生えぬ、蒔かれた種は生える。原因と結果の理解に基づく仏教、そしてすべての存在、現象が縁起するという科学的な真理に基づく哲学に魅き付けられながら、自分が日々感じたり、考えたりしている不安や疑問やときに感じる怒りについて、よく考えてみようとそれが仏教を勉強したいと思った理由でした。

 でも仏教といってもあまりに広く深く、かつ不明確な山のようなものですね。どこから入ったらよいのか。

 ともかく出会ったところから(感謝して)始めたいと思います。これから理解できたことや疑問をときどきかくことになるかもしれません。


 二十年くらい前です。数人の人たちが雑談に近いような議論をしていたとき、哲学の先生が「戦後みんな同じスタートラインについて平等になった」という意味のことをいわれたことがありました。法の上では平等になったはずでした。そして事実平等になったと受け止めた人も日本のなかで多かったと思います。でも平等などということは本来どこにもない、法の上では平等でも不平等なのが人間の社会なのだろうとその時思ったのですが、命の重さは誰の命も同じ、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといった福沢諭吉の言葉のように同じであるべきという理念としてだけあるのだと思います。そして今もその理念を目指しているのだろうと思います。

 しかし最近日本の精神文化の歴史とか伝統とか、さらに人間の普遍的な課題をめぐっての考え方、へだだりが大きくなっているのでしょうか。そしてそれはなぜなのだろうかと考えてしまいます。



 

 

 ほう

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個人レベル、社会レベル  [雑感]

 

最近よく個人レベル、国レベルということを考えます。

人間の本質とか存在の本質、国と個人の関係など。

国と個人の関係は一即多、多即一と考えてきたのですが、1=多、多=一ではない、それは自明のようにおもわれますが、国と個は一体であるという同一化はこれまで歴史の中でしばしばあったことですし、現代の社会でもおこりうることではないでしょうか。むしらその傾向はかってなく強まって、まるで運命共同体のようにその中で個人はくるくるとまわっているのかもしれません。

 個とか人間一人ひとりの自由とか主体とかあるのか、ないのか。また一=多、多=一がなぜ間違いなのか、危険でもあるのかを考える事は今とても重要だと思います。

 個と多は=ではなく、関係しているのだ、かかわっていることを知ることも大事だと思うのですが、それでは個(人間)の存在と人間の本質はどんなものなのか、それを考える事は社会を考える事にもつながると思っています。


 一即多、多即一であることと天上天下唯我独尊を釈迦は教えの中に残された。そして弟子たちに自分の言ったことをそっくりで真似るのではなく自分で考えるように、自分の法則にしたがうようにといい残されているそうです。今の時代にもしお釈迦様が生きていらっしゃったら、今の時代について何を思われるでしょうか。

 釈迦が残された仏教についてとても勉強したくなりました。



 最近とてもショックだったニュース。

 教師が同僚の教師をいじめていたというニュース。報道されたところではとても人格を無視するひどいいじめだと思うのですが、いじめていた教師は楽しかったからとか、相手が嫌だと思っているとは思わなかったといっているとか報道されていますがとても驚きました。なんという他人への感覚の鈍さか。あるいはひどい勘違いをしているのかもしれません。ああ、ここまで来たかと思いました。こういう人がこれから育つ大事な子どもを預かっていることをどう考えたらよいのでしょう。

 四人の教師のいじめを学校の責任者である校長や教師一人一人はどう感じていたのでしょうか。知らなかったのでしょうか。子供を預かる教師集団のことだけに本当に子供にとって大切なことを考えてほしいと思います。

 

 ネットを見ていると和田秀樹先生の「甘える」を異常に恐れる日本人という文が載っていました。(president online   2019.7.16)

 その内容について感じたことを二、三書きたいと思います。


 先ごろ、農林水産事務次官を務めていた人が44歳の長男を殺害するという事件があり、世間に衝撃を与えました。

 この事件について和田秀樹さんが考えられたこと。

 同じころ起こっていた多数の犠牲者をだした凶悪事件から、「息子があの事件の容疑者のようになるのが怖かった。周囲に迷惑をかけたくなかった」と動機を述べている父親について、和田先生は心理的視野狭窄だということ、なぜ周囲に助けを求めなかったのかという疑問を語られています。

 父親の判断は本当に視野狭窄だったのか、なぜ周囲の助けを求めなかったのかという二点について、これまでの家族の関係、どういう実態だったかが外からはわからないので、本当に父親の判断が視野狭窄だったのか、周囲に助けを求める(助けを求めたら何らかの状況の好転を期待できたかも含めて)状況とか環境があったのかわからないのですが、和田先生が言うように世間体とか見栄なのか、あるいは冷静な判断からか、わからないと思いました。

 社会の現実はまだたとえ公的な機関やそのほかに助けを求めたとしても解決できるといえないことが多いとわたしは感じています。(なぜそういう実態なのか、その理由は後で考えたいと思いますが)そうではなく解決につながることもある、それも多いかもしれません。今はそういう現実ではないでしょうか。

 事務次官の判断が冷静な判断でないとしたら、自分の手で息子を殺害するなどということができるとはわたしには思えません。半ば確信的に行為しているのですから。しかし殺害するなどということはどんなことがあってもしてはならないことのはずです。してはならないことはしないほうがいいのだと思います。

 それではどうなったか?長い時間がかかるかもしれません。さまざまな時間が積み重なって、父親が考えた結果のようになるとは限らない、別のものになっているかもしれません。


 二つめの問題。「人に迷惑」を異常に恐れる日本人の病理といわれていることについて。

 人に迷惑をかけるなということは私も子供のころから常に親から教えられてきたなと思います。人に迷惑をかけることは自分でも心の負担だったから、人に相談したり、心配させたりしないで自分で解決する。人に甘えるのは下手、人を頼ることも下手、み方によってはとても可愛くない存在だと思います。内気で引っ込みジャン、考えていることが人に伝わらない。こんな心象は昔から日本人に多いかもしれません。

NHKで「事件の涙」という番組をやっていました。大河内清輝君が同級生からのいじめを苦に自殺した事件は1994年に起こりました。今もいじめ事件が後を絶たない、悲しい限りですが、大河内清輝君の父がなぜ苦しいと話せなかったのかを今も問い続けています。なぜこんなに苦しいことを苦しいと親かだれかに伝えることができないのか、その答えがみつからないでいます。

 和田先生は「甘えを認める文化から、自立へ」というなかで、タテ社会は今も続いているが人に頼ることや救いを求めることが日本社会ではとてもハードルがたかくなっているのではと言われています。「甘える事は悪いことである。許されない社会」に移行しているのではないかと。

 その背景にあるのが競争社会と自己責任論で、さらにその上に日本の社会にもともとある強い同調意識が親と子を競争と自己責任へとしばっていますから二重三重の苦しさといえないでしょうか。

 しかし欧米では最近、総合依存の重要性が強調されるようになってきているといいます。一人の能力は限界があるから、助け合える社会。心理的依存の重要性が指摘されはじめている。感情のコントロールや共感する能力、相互に依存し、人間関係を豊かにする重要性が、メンタルの健康度や判断、決断をも健全なものに、協同によるパフォーマンスを向上させるなどと考えられるようになっているとか。このような指摘はとても納得がいく指摘のように思います。

 

 日本社会はもともと個よりも場を大切にしてきましたから、場と個は一体でした。公共が個人を守っている限りにおいておおらかで屈託もなかったと思います。今の子供のほうが精神的にきついのではと感じます。心の優しい子供が人に頼れず、自分の中に苦しさを抱えて命を削っていく。社会にとってもマイナスだと思います。


 個人レベルと社会レベルでかんがえるということをあれこれ考えていましたので、以前書いた文章をかきあらためました。


 








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2019-10-08 [日記]

 なぜ生きるのか、何のために生きるのか。生きることについて、悲観的か楽観的かと自分に問うと悲観的だったり、絶望的とさえ思うことがある。それが全部かというとそうじゃない。悲観や絶望だけじゃいけない。たとえ結果がどうあろうとも、社会とか人間の将来とかに悲観的だとしてもそれでも生きていかなければならないのだと思う。

 大切に思うことがあり、大切に思う人がいる。守りたいものがあるから、大切に思うことのためにどんな努力をするか。今日という一日もそのためにあると思う。


 久しぶりに娘の家に行って、子供たちとも会うことができました。

 韓国との関係の問題で娘とちょっとした話になったとき、考えが違って、私も自分の意見をいっているうちに言い争いになってしまいました。気まずさと幾分かのショック。なぜ彼女がひどく激高したのだろうとその理由を考えていて分かったように思えました。すまなかったなあと考えました。

 いっぱいいっぱいやっとの生活をしている彼女、政治や社会の問題について私の感想など何気ない普通の会話でも、彼女には迷惑なくらい一日一日が大変なのだと思いました。もしかしたら、多くの若い人達が政治や社会の問題から遠ざかっているのも余裕がないから、そんな時間も余裕もないのが現実なのだと思いました。





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2019-10-02 [日記]

 本の返却に行ったときでした。その日の催しものを案内掲示板でたまたま見ると「なぜ生きる」という仏教講座があるのを知りました。

 かねがね仏教について勉強したいと思っていたところだったので、奇縁です。講話を聴くことができるかどうか入り口でたずねるとどうぞと言われ、他に予定があったので残念ながら短時間だけ講話を聴くことができたのですがこんな近くに勉強できる機会があるなんて嬉しくなりました。


 ビデオでの高森顕徹氏の法話でした。私の中で何か明確になったことがありました。次の日は五日にわたる集中講座の最終日だったようでこの日は一日、法話をききました。

 なぜいきるか。生涯をかけて生きる意味、迷わないで勇気を持てるまでにはっきりするでしょうか。簡単な事業ではないですが仏教という言葉は子どもの時から知っていても、本当の仏教について系統的に話を聞く機会を得られたのは初めてでした。


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それにしてもチョンボ続き [日記]

 読書会があるので出かけました。乗る線を間違えてしまいました。時間に遅れそうで急いでいたのですが、千葉からさらに南下したり東に向かったりすることに慣れていないといえ、情けないチョンボでした。もうちょっと前ならしない間違いだと思います。これは一昨日のこと。

 今日は市街の中心まで出ないと済まない用事が何件かあって出かけたのですが、内二件は身分を証明をする書類が必要でした。持たなかったので無駄足でした。帰り道何とつぶやいたか、思わずバカっ。


 年を取るとなぜ注意力がたりなくなったり、忘れることが多くなったりするのかと考えてみると、確かに神経の伝達が遅くなったり、どこかで途切れていたりってことがあるのかもしれません。だから反応が遅れたり処理能力がおちたりするのでしょう。そのために急がない、慌てないでよく考えて準備するを心掛けているのですが、それでも抜けるのは習慣や惰性で行動する癖がまだついているからのようです。


 NHK土曜日9時からの「詐欺デカ」見ごたえがあって楽しみだったのですが終わってしまいましたね。


 社会のシステムについて、なぜ経済発達だけが至上命令なのか、疑問に思うことがあります。

 経済発達を必要とする根拠はさらなる欲望の充足追及と金にあるのではと思います。

 これがもっと住みよい、暮らしよい社会にと目線をかえたとき、経済は重要ですが、ひたすら利益追求、金まみれではないもっと違った暮らし方、生き方が生まれてくるのではないか、国と国が争う狭いナショナリズムではない同じ人類社会の未来という希望が見えてくるのではと思うのですがどうでしょうか。

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秋になる。 [日記]

 この数日、物干し台にたつとかつっての焼けるような暑気に代わって、冷え気味の足元からホカホカと温かみが伝わり、空を見上げると青い空と澄んだ空気、静かさが戻って秋だなと感じます。散漫な頭も少し集中力を回復できるかなと思っているのですが、相変わらず散漫です。


 最近気になっていること。

 with news  9月23日の「不安な時代のささくれだった気分の行く先を考える」という真鍋厚氏の記事、これまで感じてきていることと全く同じだなと思いました。

 右肩上がりのあの素晴らしい時代をもう一度、高度経済成長に象徴される活力と繁栄を。今日本が目指していること、政府の政策もそこにあるのでしょうが、「古き日本を取り戻すお祭り」は時代錯誤の現世利益の信仰ではないかという指摘、視界ゼロ、閉塞感が覆う時代に気分を盛り上げて楽しんだり、飛躍を望んだりするお祭りも間違っているとばかりは言えないのかと思いますが、そういう信仰にだけ頼るのでは問題解決にならない深刻さではないかと思います。

 戦後経済成長はまるで無一物になった国民が必至に生活を立て直す努力をする中で可能だったわけで、それだけの国民生活の需要があった、需要に匹敵する供給も生まれたと考えれば、世界の経済大国の一つに数えられるまでになった日本がもう一度右肩上がりの経済成長の夢を追うことだけが大切なのでしょうか。アメリカも同じ、世界一の強国の夢を再びと追いかけています。夢を追いかける一方で成長の鈍化や少子化や格差、地球環境の変化、戦争や紛争の危険までが深刻になっているのが現実だと思います。

 生産を支えている労働者が本来持つべき力を持たない、家族が脆弱になり、問題を抱え、人が壊れている。

 人が生きる基礎の部分で社会の仕組みの土台でも心の面でもあやうくなっているのではないかと思うのですがどうでしょうか。

 こうした危機を作った原因は真鍋氏が指摘するように社会問題の個人化と政治的無関心、外部委託と自己責任化、言葉をかえると社会問題が社会みんなの問題ではなく個人の問題になり、個人は主体的にかかわるのではなく、外部委託で無責任ということでしょうか。


 子育ての個人化と孤立化は経済成長が始まったころから急速に広がったと実感します。

 かっての家族制度から、多くの人が社宅や団地、一戸建て住宅などで生活することが多くなって、夫婦と子供の単位が一般的になり、夫婦単位の生活を営むことができる経済とそれ以上の広さや経済的条件がないこと、大家族制の煩わしさなどの理由もあって、核家族の独立が進んだ。家族の独立と同時に地域の崩壊や孤立化も始まったように思えます。

 隣は何をする人ぞ。関心も関係ももたないのは楽でもあります。その中で核家族単位での競争にのめりこんだのかもしれません。

 社会問題を解決する力が小さいことや政治的無関心は社会を住みよくすることにつながらないことは明らかですし、次世代により一層の負担を残すことです。そのことを本気で考える政治家がどれだけあるでしょう。

議員になることが就職活動や権力欲につながっているのかと思う議員が多くなっているとさえ思えます。

真鍋氏の言葉にあるように子育ての個人化と孤立化を避け、社会レベルと個人レベルの両輪をうまく働かせる社会を国民も自分からめざさなければならないと思いました。


 クレタ・トゥンベリさんの発言、孫たちの時代を考え心をうたれました。

 


 



 


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2019-09-20 [日記]

よいしょこらっしょどっこいしょ
 椅子から立ち上がるのは問題ないのですが、床に座った姿勢から立ち上がるとき、重い洗濯籠を抱えて二階に上がるとき、よいしょこらっしょと掛け声をかけずにいられません。

10年くらいの間に10キロくらい増えているのですから、10キロの米袋をいつも抱えているようなものです。掛け声をかけたくなるのも無理ないです。
 これはどうしてもまずいです。理由はいくつかあります。第一恰好が悪い。昔の服が着れない。健康を考えてまずいから頑張ろう。
 どういう努力をする?
 これまでいろいろ健康番組をみたり、データはとってきたけれど、まだちゃんとした分析をしていません。どんなものを食べて、どんな運動をしたか、その結果どんな関係があるのかなど、

 そのうえで努力してもし効果なかったら、その時は加齢に伴う変化は自然と無駄な抵抗はしませんよ。



 家族という問題で是枝監督とケン・ローチ監督の対談
 家族であっても、一人ひとりは別の人間。別の人間が共に暮らす。小さな共同体で、かつ人と人の原点だなと思います。血縁でつながっていることが多いが、血縁関係がなくても家族。ともに分かち合う関係でいたいと思います。
その家族について先日是枝監督とケン・ローチ監督の対談が放送されていました。とても素晴らしい対談だった。


 対談から

 家族という共同体が脆弱になり、崩壊しつつある。労働者が本来持つべき力を失っている。そのために家族が不安定で、葛藤を抱える。なぜ一生懸命努力し働いても生きる事が苦しいのか、本当の理由をしらないでいる。


 少子化は半世紀前くらいからはじまっていると思います。そして当然のようにさらに歯止めがかからなくなっています。それはなぜでしょう。


 福島東電の原発事故の東京地裁判決が昨日ありました。被災された方々の言葉にならない無念の思いに心が痛みます。その夜TBSの対談を聞いていました。原田前環境大臣の発言に人間の力(コントロール)を超える科学技術への妄信や依存があるのかと感じました。人より技術に重きを置けば、いずれ人間が壊れるのではと思いましたがどう思われますか。

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生きるを考える [日記]

 

 省庁の事務次官という官僚としてトップにまで上り詰めた人でも親として苦しみぬいた挙句息子を殺害するという痛ましい事件、生きるということはなんと惨いことだろうかと思いました。

 生きることの厳しさはこの人だけの問題ではない、もともと生きるということはそういうことなのだと思います。

 

 家庭内での子供の暴力、登校拒否や引きこもりなどがあちこちでめだって多くなったのは1970年前後から、子供の家庭内暴力に思い余った親が子供を殺害する、逆に子が親を殺害するという今回に似たことがおおくなりました。 

本多勝一氏の「子供たちの復讐」のなかで稲田博氏と本多氏の対談がのっています。稲田氏が、「このごろの子供の満足には、人間の値打ちといいますか、幅広くて深い洞察力を持つ人間になるとか、豊かな心を持つ人間になるというのはみんな消えていますね。満足できるのは点数と物です。点数がよくなければ楽しくないし、金で物を得なければ喜びを感じない。物を介さない人間の価値ということに対して、このごろの思春期から青年期にかけての子供たちは否定的な発想になっている」というようなことをいっていらっしゃいます。

 さらに家庭内で親に対して暴力をふるっていた開成高校生の親もめちゃくちゃに息子の尻をたたいたわけではない、塾に行くのも世間並みに、勉強も世間並みにやらせたにすぎない。”世間なみ”自体がもうそうなっていると。犠牲が多くなるだけでなく、このまま進めば将来民族の滅亡につながりかねないという危機感さえ稲田氏は感じておられます。


 こじれ続ける日韓関係ですが、読書欄に「反」「親」より「知」こそ重要という本の紹介記事がありました。その中の「地政心理」で語る半島と列島という紹介の中で、手続き主義・機能主義が支配的である日本と「こうあるべきだ」という当為主義が支配的な韓国の違い。規範・権威・欲望などへの態度が日韓でこれほど違うのかと読者は驚くだろうと書かれています。

手続き主義・機能主義の日本という言葉がとても印象深かった。何か大切なものがそこに存在しなくなっているのではと。


 生きにくさや自分のアイデンティの揺れ、深く潜行していじめや虐待、薬物依存、自殺、傷害事件、引きこもり、他殺などの形で広がっているように思われます。


 ある本を読んでいたとき、そこにこんな言葉がありました。

 子供の幸せを願わない人はいないが、子供の姿が正しく見えなければ、すべて徒労に終わりかねないと。

「親と子の行き違いはありふれている。当然なのだが、親のほうに行き違いについての自覚がなく、この行き違いを補う子供社会もうしなわれているとしたら」という言葉にも出会って考えさせられました。

平井信義はその著書で、すべての親は子供の発達段階についてもっと勉強してほしいといわれています。


 存在(リアル)と自我(主観とか自己意識)という問題。

 どういう自己意識や価値観をもつか。

 国と国の距離が縮まり、世界のつながりが緊密になり一つの世界になりつつある中で、経済や自然環境、文化や文明と命の問題が普遍的な問題として、すべての個人にとって避けられない問題として登場しています。

 わたしは自分中心の利己と他者の命の尊重、共生なのかが基本のところで問われているのではないかと思っています。


 自問自答を中心に拙いブログをはじめて20年ちかくなりました。自問自答はこれからも続くだろうと思いますが、一区切りをつけて終わろうと思います。貴重なコメントを寄せていただきありがとうございました。大変励まされたり、とても勉強になったり。感謝です。

今回は依然書いたものを書き改めました。

 これからは軽いスケッチのような更新をたまに書けたらいいなと思います。

 



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生きるを考える  [日記]

 昨夜はミシミシと音を立てて家全体が激しくゆすられるような強風に家は大丈夫だろうかと心配になってしまいました。

 外出の帰り道公園を通ると大木のプラタナスの太い枝がぼっきりもぎ取られて落ちていました。ヒマラヤシーダーも枝がざっくり二本もぎ取られていました。瞬間最大風速57mを超えるような強風が千葉で吹くことはめずらしいです。あらためて台風や地震の被災地の皆さんの大変さを思います。


 「黒い看護婦」を読み終わりました。呆然としてしまう内容でした。フィクションでない実際の事件であるだけに疑問、考えたいことが多すぎて簡単に整理がつきません。


 ニュースで報道される様々な事件、そのたびにダメージを受けていては身が持ちません。見ざる聞かざる話さざる、隠遁の姿勢でいることが一番いいのでしょうか。自分の足元だけ見てそれが賢い身すぎ世過ぎかと思ってしまいます。


 9月8日の朝日新聞朝刊にイスラエルの歴史学者・ハラリ氏の警告という記事がありました。

 AI支配 大半が「無用者階級」にという見出し。

 それにしても人間が積み上げてきた歴史、今日の世界でなぜ、人の存在が存在価値のあるなしや高さで考えられるようになったのかと疑問になります。生まれてきた、その命の絶対性ではなく、生まれた命にどのような価値があるか、社会的価値があるかないかで測る世界、両者は明らかに違います。

 どのような身体的、環境的条件のもとにこの社会に生まれたとしても、その命が持つ生命力によってその人らしい成長を遂げて彼や彼女として生涯を終えることが大事で、価値で考える事は本末転倒、倒錯しているのではないかと思います。生きにくさの基本的な理由がそこにあるのではないでしょうか。


 幼い子供の虐待死事件や看護婦四人による保険金連続殺人などにみられるように、なぜ夫の暴力や支配、保険金連続殺人の三人の看護師たちのように自分の意に染まないことにイエス・ノーの表示ができないのか、なぜそういう主体的な行動ができないのかという問題を感じます。

 一つには経済的力の有無という問題があると思います。二つには支配力の強さ、特に暴力や強い威圧、脅迫などの力。そこから逃げることは簡単ではないと思います。逃れるための社会的なサポートも絶対的に不足しています。

 でも三つ目にわたしはやはり日頃から自分の弱さや愚かさに気づいて自分を守る力を育てることが大切になると思います。また自分の力だけでなく人と力を合わせる事が必要と思います。

しかしやはり気になることは親や先行する世代がこれから続く世代から「自分への信頼」とか「生きる希望」とかを奪って、二イルが言うように若者への圧政や去勢を子供時代から行っているとしたら、勇気をもって進む力が育たないのではないでしょうか。


 連続保険金連続殺人の主犯である吉田純子には死刑判決が下りました。彼女は犯行を平然とむしろ楽しんでいるところがあります。サイコパスということができるのだろうと思いますが、でも彼女はなぜこれほどまでに物質欲と性欲、残酷で冷徹な支配と快楽を追求する人間になったのでしょう。生きる力の強い人物だったのだろうと思いますが、彼女は子ども時代に母親からの虐待と差別的扱いを受けています。そこでどんなふうに人を支配するか、力を学んでいるように見えます。生まれた最初から怪物なのではなく、怪物は作られるのだということがこの事件でも著者の丹念な取材によってしめされています。このようなモンスターを生むのも社会であり、人と人の関係なのではないかと思います。

 問題の子はいない。いるのは問題の親である。いや人間だといったほうがよりいいだろうと二イルは言いました。残虐な戦争での悲惨も、自然の破壊も人間の限界なのでしょうか。

愚かさや弱さから無縁の人はいないと思います。でもその愚かさや弱さに無知ではいけない、怖いことだと思います。

 愚かとはなにか、答えは簡単ではないように思います。


 














 

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生きるを考える。 [日記]


チョンボふたつ。それも一日のうちに。

今日は千葉市中央図書館で行われた「未来の図書館をひらく」シンポジウムに行きました。本当はあらかじめ参加の申しこみの必要があったのですが、すっかり忘れていて朝ぎりぎりになってあきらめようかと思っていたのでした。ですが場所が近いこともあってとりあえず会場まで行って聞いてみたところOK。ラッキー。

基調講演は茂木健一郎氏。お話を聞くのは初めてです。大変面白く心に残る講演でした。


行政に対するいろいろな期待の中で、膨らむ期待の大きさと財政とのギャップ。図書館の役割も運営の仕方も大きな流れの中で変化をとわれているのでしょう。

図書館はなぜ必要か、その役割は何?どんな図書館か?


私はよく図書館の本を借ります。読める量は少ないですが、半分くらいは図書館の本、あとは自分で買ったり、今までに持っているものだったりで私にとって図書館はなくてはならない存在です。

私の図書館観は人類の歴史の宝庫、知識の宝庫、さらに現在の人類のあらゆる情報の宝庫です。

だから大いに利用しないのは勿体ないと思います。

茂木健一郎さんのお話はさらに視点の広さと深さ、これからの図書館の役割にも触れるお話だったと思います。でも図書館はまだあまり人々の身近ではないようです。

自分で必要な本を買える人はそんなに多くはないと思います。中には本をまったく知らなかったり、出会ったことがなかったり、本を読みたいと思わない人も多いだろうと思います。そういう人が利用したり出会えたりする図書館であってほしいなと思います。そういう意味でもっと運営の仕方もかわるのでしょうか。


今図書館で借りている本は森功氏の「黒い看護婦」

この本は福岡で実際にあった女性四人組による保険金連続殺人事件をもとに書かれたものです。ドキュメントに近いのではないでしょうか。最近テレビでも放送されましたね。

まだ読み終わっていないのですが、こうした事件の加害女性が自分と関係のない世界の人と思えません。同じ人間であり、同じ女性です。何が人間をつくるのでしょうか。また何が事件へとつなげるのでしょうか。


 チョンボの二つ目、この記事書き直しました。先に書いたものを保存できていなかったのです。だから簡単になりました。












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いきるを考える  [日記]



 自分の「生きる」ということ、人生の意味、どう生きるかなど基本のことを考えるとき仏教に学ぶことは多いとよく思います。

 釈迦の教えを読むと真理だと思うことが多い。

 如実知見の意味は物事を自分の都合を通さずにみるという意味だとか。

 自分の都合を通さないということは私を捨てて無私になって現実をみるということでしょうか。

 人は誰でも自分の善悪観とか好悪とか快不快の感覚、感情で情報を受け取りますから、いやなものを避けたり、憎んだりしてしまいます。僧侶の小池龍之介さんはストレスを刺激する三つの毒として、「欲」もっと欲しくてたまらないというエネルギー、入ってくる情報を受け入れたくない、見たくも聞きたくもないと拒絶する「怒り」入ってくる情報を興味が持てず、無視する「迷い」をあげています。

 これらの仏教でいう煩悩のエネルギーは自分の都合や思いを優先しますから、自分の認識と現実とのずれ、歪みをつくります。

 人生は苦であるということは自分の思い通りにはならない、現実とはずれがあるという人生の真実を教える言葉なのでしょう。

 このことで私は自分の子育てに間違いがあったなあと思うことがあります。人生は苦であるということを教えていなかったから、現実にぶつかったとき対処の仕方が分からないで絶望の中でずいぶん苦しんだのではないかと思います。

 私の子供のころはそれまでの社会がすべてひっくり返ってゼロになった時代でした。人に頼らないで自分でなんとか生きる時代でした。しかし自分の子供を育てるとき、人生を肯定的に理想化して考えていたわたしは間違ったメッセージを子供に送ったのではないかと思うところがあります。如実知見は自分の主観というものを絶えず、軌道修正して事実に即することを教えているなあと思います。

 





 

 


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2019-08-14 [日記]

 今日はお盆。


 仏教でいう無と空、どう考えてもはてなマークの連続でした。

 空も無も文字通り、何もないということと解釈していたので、存在はあるじゃないのと腑に落ちなかったのでした。

 でもお釈迦様は存在を否定したわけではないのですね。存在の在り方なのですね。




 お盆です。故人について思いをはせるのはこの有限と無限の時の流れの何かなのだと思う。



 今日は晴れたり曇ったり、ときに雨が降ってきたりと、不安定な天気です。

 蒸し暑さが半端ではないですね。

 昨年まではなるべく冷房を入れないでがんがっていましたが、今年は熱署には勝てず、朝から冷房がはいっていました。だが待てよ、どうも夏太りの理由は?あまり冷房のあるところで動かない、汗をかかないってこれいいのかなと最近の腎機能の数字を見ながら考えていました。昨夜のたけしの家庭の医学、運動しても筋肉が弱る理由当てはまるなあと思ってしまいました。






 


 

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自己愛という問題 [日記]

 

  市の検診結果が出るのを待って、春から初夏にかけていくつか検査や診察を受けることが多い。今年も黄色信号から赤信号にかわりかけているのかなと思う数値が二つ、三つあった。でも治療が必要とまではなっていない要注意、気持ち新たにゼロ円健康法を頑張ることにしました。

 不特定の人に届けるブログ、書く必要があるのかなと思うことがしばしばなのですが、でも今の時代は一人一人のつぶやきや思いも大事なのではと思う。個人が消えてしまいかねない時代だから、いろんな形で人と人がつながったり、行き交ったり、そして社会が見える努力が必要なのではと思う。


 本棚に「喫茶店のソクラテス」という新時代工房制作の本が目に入りぱらぱらとめくっていくとまた読んでみたくなってしまいました。

 五人の哲学や社会学者による共著です。

 どう生きるか問題にならない人なんていない。今くらい混沌と先が見えない時代もない。みんな何かを考えている。そしてどこかおぼろげに気づいている。だが、もっと視線を広げて、深く考える事をさけているのかもしれない。

 今朝たまった新聞の切り抜生きをしていると資本主義の終わりか、人類の終焉か、未来への大分岐という新刊本のタイトルが目に入ってきました。今くらい哲学することが大事な時代もないのかもしれない。誰もが避けようのない今という時代をどう生きるか、一人ひとりの選択なのですね。

 この本は30年くらい前に書かれていますが今という時代に読みたい本と思いました。喫茶店での会話や議論のような楽な気分で読めることもいいなと思いました。


 ニュースを見ると憂鬱になってしまいます。見る回数を減らしています。結局自己愛のありかたの問題なのでしょうか。

憂鬱だが、失望ばかりしていてはいけないのだと思います。深い闇の向こうに明るい未来を希望し創造しなければならない。

 一即多、多即一。一は一であると同時に他、全体。サイの角のように一人歩め。自分に専心するということはより自分と他人を知り関心を持つことなのだと思います。

 

 







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いくつかの事件から思うこと [自問自答]

                                                   

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 二イル著作のメモ 

 

 攻撃欲について。 

 最近のニュース、川崎の事件、京都アニメの事件も言葉にできないくらい恐ろしく凶悪な事件でした。ちょっと理解できない、ちょっとところか、どう考えても理解不能になるような事件です。なぜ、何の関係もない見ず知らずの人の命、幼い子供たちの命を奪うことができるのか。 

 こんなに理解し難しい事件、昔とも違うものを感じながら、このような事件がなぜ頻発するのか、ただおびえ恐怖するだけでなくその理由、原因にせまり、このような悲惨な事件の犠牲者を出さない世のなかにしていかなければならないのだと思います。そうでなかったらいつもびくびくしていなければならなくなりますから。びくびくしながら生きなければならない社会はだれでもゴメンです。 

 二イルはこんなことを言っています。 

 子供の困った状態を起こすコンプレクスの原因を知るだけでは子供をよくすることはできない。教育者の仕事は子どもを治すということなどの必要のない世界を生み出すことである。 

 

 子どもを治すということなどの必要のない社会をつくるということ、とても重要な言葉だと思いました。しかしその意味はどういうことか、そしてどこからはじめたらよいのでしょうか。 

 

 子どもの性格の傾向が、初期におけるまちがった取り扱いと親の無知の結果であることを知っておどろいていると二イルは言いました。 

----問題の子どもというものはない。あるのは問題の親ばかりである。これは間違いではなかった。しかし、あるのは問題の人間だけであると書いたら、さらによかったであろう。

 

  原子爆弾が何ゆえ恐ろしいかという理由は、それが人生否定の立場の人々に管理されているからである。 

今日のような神経症的で、憎悪と闘争の傾向の、ゆがんだ感情生活を持つ病的な世界は、ライヒ(精神学者)も言っているように、人間の誕生の最初の瞬間から始まる。不幸な抑圧的な母親の胎内において赤ん坊がどのように成長するか。ゆりかごの中に自分の腕を縛り付けられて育てられた人が、人生否定の態度の人にならないと誰がいえよう。 

極めて少数の教育者たちがすべての子どもに善意を認め、自由を与えようとしているとき、大部分の子どもたちは懲罰,禁止、軍国主義、性的倒錯などの憎悪の人生否定の敵によって訓練されつつある。 

最近私は7か月を過ぎたばかりの赤ん坊が、お腹がすいて泣いたために母親にうたれているのをみた。 

生活と愛と働くことの自由は結局において勝利をうるであろう。 

人生は進歩すべきものという推定のもとに働かなければならぬがために、憎悪が我々すべてを破壊しつくすのを手をこまねいて待っていることは若き人々に対して、無力な裏切り的行為である。---- 

  教育者の仕事は子どもを治すということなどの必要のない社会をつくることであると。 

 そして人間の将来に果たして救いはあるだろうかを二イルは徹底的に究明しました。 

 

 生命否定の側にあるものは人間を憎悪と破壊と死に導くものであって、そこに絶対の救いはない。この意味において自由こそ来るべき世界の救いである。自由の中で育てられ、自由の中に教育されたものによってこそ、輝かしい将来は期待できると。 

 しかしわたしは二イルのいう自由を半分くらいしかイメージしたり想像することができませんでした。充分読んでいないせいかもしれません。子どもに自由を与える教育ということが現実の生活のなかではっきりイメージすることが難しかったということです。 

  存在と自由という問題、まだはっきりしきれませんでした。

 

 

 二イルの著作の翻訳をし、日本に紹介するとともにご自分でも教育者として仕事をされた霜田静志氏は戦後、家父長制の封建的な家庭が解体され、夫婦を根幹とする家庭の民主化が行われるようになりましたが、新しい立場に立って家庭はどのように調整されて行ったらよいか、子どもらに対する家庭教育はどのようにあるべきか、真の育成の場とするにはどうすればよいかを研究問い続けました。 

 家庭のあり方と家庭における子女の養育のいかんが実は世界の将来の運命を左右するものである。それゆえに家庭の問題は単なる家庭の問題ではない。世界の将来につながる重要な問題であるとのべられています。

 民主主義も家庭から始まるのだろうと思います。 

 

  川崎の登戸で起きた事件、京都アニメ事件、それぞれの事件から報道される限りの中で、それぞれの事件がなぜ起きたのかを知ることはできません。しかし、事件を起こした犯人がどのように育ってきたのか、少し報道されたところをみるととても驚きました。自分だったらどうだったろうと。自分で語ることも自分の気持ちを自分で考えることもできない幼ないときにどんなに失われた言葉、奪われた言葉、傷つけられた気持ち、感情があっただろうかと。とんでもない重大な結果との間に関係があるのではと思いました。日常と結果の間にあるあまりに大きな乖離、それらを防ぐ手立てはどこにあるのでしょう。 

 

 7月23日朝日新聞に「あなたのため」という教育虐待というコメントがのっています。

2016年小学校6年の長男を包丁で殺害した父親の判決が19日言い渡されました。 この事件についての詳しいことを最近ネット上で知ったのですが、なんとひどい事件だろうと思いましたが、なぜこのような事件が起こったのかの背景を考えると見えてくることがあると思いました。

 なぜあなたのためという名の教育虐待が起こるか。殺害された長男の父は国立大出身で有名企業で早く出世、その父親(祖父にあたる)から同じような教育虐待を受けていたことが法廷であきらかになりました。それくらい受験というのは壮絶なものという認識がこの家庭には代々受け継がれていました。この家庭の受験に対する考えはこの家庭に限ったことではない、かなり程度の違いがあっても全体に共通するものでしょう。

 教育の目的は子ども一人ひとりが自分らしい生きる力を育てることができる子どもの人権と個性の尊重であるはずが、日本の大勢も国の教育政策も経済成長のための知育教育に偏ってきた、そこから自由であることはかなり難しい、そのひずみが親子を受験競争へ駆り立てているのではないかと思えます。

 

 「不幸にする親 人生を奪われる子ども」(ダン・ニューハース著)に不健康なやり方で子どもをコントロールしてばかりいる親は、気づかないうちに子どもの心に地雷を埋め込んでいる。親の有害なコントロールによって子どもが支払う代償は大きい。うつ、不安、貧しい自己像、自己破壊的行動、ストレスが加わるとすぐ健康を損ねる、などの傾向とともに、自分を大切にする感覚や伸び伸びとした自由を感じることがほとんどなく、生きている意味が分からない、自分を愛する気持ちがなかなか持てないなどネガティブな影響にくるしむことになってしまうことが書かれています。

 親が意識的にコントロールしなくても、親の生活状況や考え方も無意識のうちに影響しますから子どもに与える影響というのは親だけではない社会の在り方もあると思います。

  

 人間であるために大切な何かが欠けてしまう。それは悲しいことです。世代から世代への負の連鎖を引き継がないために、今どんな努力ができるかささやかでも小さくてもいい、一人ひとりが真剣に考えなければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


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子供だったころ [雑感]

 友人から送られた文集からの一部掲載です。掲載は友人の承諾をいただいています。




  いつ消える心の傷


  私は江戸川区平井に生まれました。昭和20年8月15日、私は六歳で、その日のことは覚えていません。

 平井にいた頃は、母親たちが一生懸命バケツリレーで火を消す訓練をしていました。父が家族のために作っていた防空壕に、警戒警報のサイレンが鳴ると昼夜を問わず入らなければなりませんでした。夜はいつも電気に黒い布が掛けてありました。

 昼間、サイレンが鳴ると皆防空壕に入ってしまって誰もいなくなってサイレンだけが鳴っていました。それがとても怖くて「泣いてはダメ!」といわれると余計大きな声でこれでもかと汗びっしょりかいて泣いていました。

 戦争が次第に激しくなり、疎開していくのでしょうか、一人減り、二人減り、いつの間にか周囲は空き家になってしまいまし た。母もだんだん心細くなったのでしょう。父の実家、長野県に疎開しました。疎開した次の年に終戦を迎えたのだと思います。何年何月だったか覚えていませんが、母のもとに白い四角いものを持ってきた人がいました。父の遺骨だということです。母も姉たちも泣いていました。私は父が帰ってきたというので不思議に思いました。こんな箱の中に父がいるのだろうかと。

私は持ってみたかった。誰もいないとき、床の間においてある白い箱をもって見たら、あまりの軽さにしりもちをついてしまいました。

 だんだん生活も苦しくなり、家具類もいつのまにか消えて借りていた家は広く感じられました。

 その頃から母のいなくなる日が多くなり、いつの間にか母も帰って来なくなりました。

 私と4歳下の弟はよく遊びました。床の間の父の遺骨でお化けごっこをしているうちに怖いのか、きっと寂しかったのだろうと思います。泣いてしまいました。私が泣いたので姉たちもみんなで泣いてしまいました。私たちだけでは生活できないので父の兄の家に引き取られました。その頃はどこも生活が苦しいためいつまでも一緒に生活ができず、姉二人、弟と皆バラバラに別れることになりました。小学校三年のころだったと思います。

 私にとって戦争とは、家族の誰かが居なくなり、住む家もなくなり、食べるものもなく、ひもじい思いと家族がバラバラになってしまうということです。だから戦争はいやです。

 今、私が思うことは、人の親切で私たちも生きてこられたし、親子がまた一緒に生活できたけれど心の傷はいまだに消えません。

 広島や長崎で原爆にあった人達はもっと悲惨な思いをされたと思います。心の傷は隠すことができますが、人の前にでられない身体にした戦争、原爆を二度と落としてはいけません。落とさせてもいけません。(M)




 

 昨日のことのように思い出すー悲しいこと、恐ろしいこと、でも私たちは生きていた。


  満州で敗戦を迎えたとき、私は7歳だった。まだ子供だったけれども、その前後のことは忘れることもなく、時として昨日、今日のことのようにはっきりと浮かんできたりする。

 昭和20年5月15日、父は出征兵士として、多くの人々に見送られ我が家を後にした。兄と私は父を送り、遠く離れた神社まで行き、そこで三人で参拝した。最後に父が私たちに何か言ったかは覚えがない。兄が右手を挙げて敬礼をし、父も同じく敬礼をした。私もあわてて父と兄と同じことをする。女の子は頭を下げればよいのだと知っていたのに。

帰り道、あいさつもできなかった自分が恥ずかしく悲しくなりながら、兄の後から兄を見失うまいと歩き続けた。

 昭和20年8月15日、敗戦。近所の日本人がどんどんと少なくなっていった。母は「戦争が終わったのだから、必ずお父さんはこの家に帰って来ますからね。ここで待っていましょう」といつもそう言うのだった。

秋は過ぎ、大陸の冬は駆け足でやってくる。昨年まではスチームが入っていた家も、もう自分たちで、ストーブの燃料も手に入れなければならない。食糧はもちろん燃料を手に入れることも大変なことであった。

真冬のある日、母と私はリックサックをしょって、鉄道の線路上を列車を避けながら、コークスを拾って歩いた。その日はいつもよりたくさん落ちているではないか。夢中で拾っていた。突然、目の前に黒光りする銃を突き付けられた。子供心にもその意味することはすぐにわかった。あまりの恐ろしさに声も涙も出ないのであった。数人のソ連兵が立っていた。見渡す限り人間は私たちとソ連兵だけである。そこは石炭倉庫。

 その時、その中の一人が私を手招きする。母の顔を見ると大きくうなずく。私はゆっくり兵士たちのところに歩き始めた。ほかの一人が石炭のひと塊をリックに入れてくれて背中を押す。母のところまで歩くのがやっとの重さ。すぐに持ってもらった。その間、私には人間の言葉を耳にしなかったように思う。零下20~30度とも言われる冬の日、母と娘は言葉を忘れて歩き続けた。

 春が過ぎ、夏になった。

 昭和21年7月のはじめ、坊主頭になった母は男性の洋服を着、子供たち4人を連れ、大陸から日本へ向かって出発した。

 「夏の暑いうちに南へ行かなければ、、、」と。来る日も来る日も昼は山の中で休み、夜になると歩きだす。兄は2歳の弟を背負い、母が妹を背負い、私は母の手をしっかり握り、南下した。

 貨物船に乗り約一か月、その間、船の中で栄養失調、病気で死亡する人が多かった。その人達はみんな海に捨てられていった。ようやく佐世保に上陸し、丸二日間、熱い貨物列車に乗り、茨城に到着する。弟は眼だけ大きく、服が出て栄養失調と一目でわかる体になっていた。

 父の故郷茨城の駅には従妹が待っていた。真夏2か月間もの逃避行の末にたどり着いた私たちを見て、さぞ汚らしく、こんな親族を恥ずかしかったろうが、近づいてきて、「おばさん達ですね。お迎えに来ました」とあいさつをした。白いセーラー服の16歳の従妹は小さな村の駅に立っているだけで美しい絵であった。ここから歩いてすぐですよ。あの山の向こうですと言い自転車の後ろに弟を、前に妹を乗せると歩きだした。「もう、ここでいい。今日はここでもう寝よう」と私は何度も同じことを言いながら、一時間以上も歩き続けて祖父母の待っている家に帰りついた。夕暮れの山々はまるでシルエットのようであった。

 昭和21年9月1日ようやく5人全員が畳の上で寝た。弟も命が助かるのだった。

 昭和27年9月7日行方不明のため戸籍上抹消するという知らせで父の葬式をした。県から小さな箱が届く。その中には父の学生時代の柔道着の写真が1枚入っていた。私は父の顔というとあの写真の顔しか浮かんでこない。


 昭和63年8月  私たち5人は生きている。

 私は命の尊さ、大切さを思い何度子どもたちに話したことか。最近では「またですか」などと相手にされないくらいである。生き残ったものは小さな声でも戦争に反対しなければという共通の思いだけは5人とももっている。5人が集まるとそんな話になってしまうのである。   

                                    (S)


  


  文集にこんな歌がありますね。

 

   こんな歌知っていますか?

 

   勝ち抜く僕ら少国民

   天皇陛下のおんために

   死ねと教えた父母の

   赤い血潮を受け継いで

   心に決死の白襷

   かけていさんで突撃だ


  むかし少国民だったAさんは今でもすらすら歌えちゃう、愛唱歌だったと言っていますね。私は小さかったから聞いたこともなかったのかもしれません。

 戦争は自分の国だけが勝てばいいというものではありません。自分の国だけが犠牲者を出すのではない、どちらの国でも傷つき命を落とし生活が破壊される。しっかりそのことを見なければならないと思います。 

 幼い子供から永久に父を奪ってしまう。一人で4人の子供を守ったお母さん、あの激しい弾圧のなかで戦争反対の運動をしていたご両親をずっとあなたは尊敬していらっしゃった。宮本百合子を卒論に選んだことも話してくださった。あなたがお兄さんについてひどく否定的な発言をしたことに驚いたことがあります。その後もお兄さんについて伺うことはなかった。過酷な体験のなかで長男であり、男としてお兄さんの生き方があったのではないかと思いますが、兄弟まで裂いてしhまう戦争悲しいことだなと思いました。

 私が職場をやめるとき、あなたは一言だけ淋しいですと言われた。その言葉は忘れていません。別れとは思っていませんでしたし、今も同じなのです。

 

  生まれてくる命が大切にされる世界、人間と自然の共生は過去から未来へ向かって人類の課題であることはかわりありません。


      





















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明るい陽ざし [日記]

あかるい陽ざしに緑一色の公園、散歩に行くとボタンはすでに終わってしまったらしく、代わりに芍薬が満開、白色のつつじは咲き始めの青みを失って最盛期をすぎようとしていました。わずかの間に季節は足早に変わろうとしているようです。古代はすの蓮池のほうに歩いていくとすでに新芽が水面からかなりのびていました。さらに池に沿って進むと菖蒲がずいぶん花を開いています。見ごろもまじかでしょう。


連休といっても関係ない生活です。相変わらずやらなければならないことはいっぱいなのに、ちっともはかどらない感まんさい。おまけに掃除機が故障、パソコンが故障、やれやれです。掃除機はなくてもほうきと雑巾があれば掃除はできます。電気も使わないで、使うのは体だけだから省エネ、健康的かも。しかしパソコンはないとだめなことがわかりました。修理にだすことにしました。家族のパソコンを時々使っていますが、画面が小さいので使い勝手がわるい。だから殆ど使いません。

本棚に二冊面白い本をみつけました。「薮の中の家」芥川自死のなぞを解く(山崎光男)と失われた母性愛(平井信義著)です。何でこれまで読まなかったのかと思うくらい、今自分が必要としている本だと一生懸命よんでいます。

パソコンが修理から帰ってきたら、この二冊の本について考えたことを書きたいと思います。



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2019-04-30 [日記]

 短い添え書きとともに友人が一冊の小冊子を送ってきてくれました。出版の話がでていた文芸誌9号が長い休眠から一歩を踏み出したのだそうです。拍手と声援を送ります。三人と少人数ですが、中身はどれも濃い力作で衝撃でした。

 国会前を埋めつくす抗議の人の波と政治の間、新聞のアンケート調査でも政府を支持できないという人の数字の多さにもかかわらす、安定をのぞむ声が大きい。どこか政府と国民の意識に大きな乖離があるのではという印象がぬぐえない。そんな昨今の不透明な時代のなか

「歴史の吐息」の敦史の何か足りない、何かが足りないという問題意識は私も常日ごろ思うので、そんな問題意識から出発しているこの作品に引き込まれながら一気に読みました。

 物語は昔は教会で、いまカフェとして使われている歴史を感じる洋館を舞台に展開します。現代につながる歴史、今という時代、どう生きるか、それは敦史にとっての問いであると同時に私の問いでもあると思いました。

 須藤みゆきさんの作品は虐待家族を扱っています。主人公は四十代前半とおもわれる研究室につとめる女性。幼児期から壮絶な母からの虐待を受け心と体に深い傷をおっています。親による子どもの虐待の姿、子供へ与えるその傷の深さをこの作品は見事に言葉にし表現したと思います。須藤さんの作品はこれまで何作か読んでいますが、今回の作品はさらに切り込んで書かれています。

 母の「あたしのあんたに対する愛情は、これだけつよいのよ」「あんたは誰のものでもない、私のもの、誰にも渡したくない」と言う矢のような一方的な愛情と娘の身体を傷つける行為をしながら、一枚の紙でもあるかのように何の表情もない母親の顔、そんな母の姿に娘はすでに破壊された精神を抱えながら、それでもなお、娘を抱えて生きていかなければならなかった哀れな人間の存在、姿をみています。

 わたしは親と子、家族などを考えてきて、最近社会問題にもなっている親による子どもの虐待にも強い関心がありました。

虐待する親の心理はどのようなもので、どんな背景があるのだろうと。いろいろの事件や本など調べても親が解決できないような問題を抱えて苦しんでいる環境にあることが多い。子どもへのむちは思うようにいかない自分への卑下、鞭が我が子へ転化したものという場合が多いように思います。解決できないやり場のない感情が力のない家族に向かう、そんな構図は少なくないと思います。

 子どもの不幸の裏に親が。親の不幸の裏に時代やその親や家族があるのだと思います。作品中の親は戦争前後に生まれ育った年代ではないかと思いましたが、その時代の女性は奉公に出されるか、もっと貧しい場合は身売りされたりすることも少なくなかった時代です。男尊女卑で人間的に扱われなかった時代ですから、精神的にも経済的にも劣悪な状況で大変な思いをして生きた女性も少なくなかったと思います。まして一人で子どもを育てなければならなかった苦しさは限度をこえていたかもしれません。その人の状況を知らないと何も言うことができないことがあります。

 子どもは親や生まれてくる環境を選んで生まれるのではないのですから、子供に何の咎も責任もありません。今親から暴力などの虐待を受けている子どもに何の責任もないことを、それによって子供が何らかの社会からの不利益な扱いを受けたりしない、そういう社会の認識にしたいなと思います。 命を生み育てる大変さを力の弱い個人にだけ押し付けることも実態にあわないし、子どもは親個人のものという考えも考え直してみたい問題だと思います。実際の親子であることを基礎にその子育てを社会全体で担うという制度を整えることが急務に感じました。

 この同人誌は日本民主主義文学同盟千葉支部誌です

  

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内と外 [自問自答]

 予約の資料が用意できました。図書館から電話が。何を予約していたんだっけと思い返しても何か思い出せないまま図書館に。前回もそうだったから、ずいぶん記憶力が落ちたのかと思うが、若い時からそれほど記憶力がよかったわけではないから年のせいというわけでもないみたい。職員さんが出してきた本を見て、ええっ、これわたしが予約した本ですか?と眺めてしまった。「new elite] グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち。そもそもエリートなんて関心ない。どうやらIT関係の本らしいと思い、取り消しをしようかと思ったが、予約したのは半年ほど前だという。たぶん、新聞の読書欄をみて予約したのだと思い、読めということ?と思いなおしました。

 少し読み始めると結構面白い本らしいと思いました。

 今病むということはどういうことか、「和解と精神医学」という本を読みなおしています。初版が1989年(平成元年)であの頃から既に私の疑問の中心はそんなところにあったのだと思う。

 

 病気とか病むということはどういうことか。著者森山公男氏の病気というのは人間が生きることの意味を問い直す一つの大きなきっかけだと思うという解釈は明快で深いなと感じます。

 著者の言葉を引用しましよう。


 人間がいきるということは、、、常にいろいろ苦しみ、人間関係とか自然との関係とか、そういう中で様々に思い悩んだり耐え忍んだりしながら生きてきたのが人間の生であって、

そういう人間の生の過酷さの表現として病気があると考えることができる。その病気の具体的在り方は、それぞれの人間の個性とか固有の生き方とかに由来すると考えられる。いいかえると病気というのはその人の生きざまの産物であると言えるし、あるいはその人の生の象徴であるといえる。、、、そういう点でももっとポジティブに病気というものを考えていく必要があるのではないか、一人ひとりの問題として考える必要があるんじゃないか。

 

 病気というものをもっとポジティブにとらえたいという考え、納得でした。

 

 人間の内と外ということ。(和解と精神医学から)


 私たちは、、、自分の生命を持った存在なのだが、別に実態があるわけではなく(風船カズラ。仏教の認識と同じ?)本来生とは「関係」の存在なのだ。生命は本質的に絶えざる関係の中にあるもので生という実態はないということが大事という。したがって生命は常に環境に対してある面で開かれていなくてはならない。常に環境と特定の関係を取り結んでいる。


 生命は環境に対してある面で開かれている一方で、環境に対して別の面で常に閉ざそうとしている。生命は常にある種の有害物とか危険とかを避けようとして、また不必要物は排泄しようとするのが、生命のもう反面の機能としてある。

 ここに生命体の内と外という問題が出てくる。

 環境に対して心が完全に閉ざされてしまったとき、今ここに生きるということができなくなってしまう状態、その結果が精神病の状態あるいは心の病の状態に陥っていくといえる。


 人間(個人)は家族とか、共同社会とかの世界にたいして開くと閉じるの機能をもって生きているといえるのだろうと思います。

 開くと閉ざす、二つの機能を働かせつつ今ここに生きることができるのは「世界との和解」「自己との和解」「自己身体」との和解の瞬間であるといえるのでしょう。

 世界との和解、自己との和解、自己身体との和解という問題を考えたとき、(著者は和解ということについて誤解しないように、体制に順応するということではないと)私は一番自分のありのままの姿、本音を受け入れる認める自分との和解が大切ではないかと思っています。自分の本当の姿を胡麻化したり抑圧していると自分の身体との調和も失われてしまいます。

 次に世界(家族関係とか仕事の関係とか、さらに自然とか)と本当に和解できるかという問題があります。

 人間が世界の中で生きるということ、世界に生きる意義や価値、本質はここにあるのかもしれないと思います。

人間の本質、命は利己的なだけかについて考えると、在るがままに子供の観察したA・S ニイルは利己的であると同時に彼らが愛他的であるといっています。実際人は自分ばかりが大事なわけではなく、他人も大事に思います。自分に共感するように他人にも共感します。

 しかし悲しかったり憂鬱だったり不安だったりするのはどこかで自分の本当の願いと世界との間に対立するものを感じることがあるからなのでしょう。

 幼い子どもが親にせっかんされ鞭うたれるような世界、鞭うつ親に社会はどんな助けができるのか、子供を守れるのかこうした問題ひとつをとってもその答えを十分に見つけることができないでいる。そういうことを考える対策や人も不足している。そのための予算もない。先頃飛行訓練中に行方不明になったF35A戦闘機は一機100億円だそうです。その値段を聞いて驚いてしまいました。42機購入する予定がさらに105機になったそうです。たとえ敵国でも多くの人間を殺せる。場合によっては自国の防衛と同時に世界を泥沼にも変えてしまう力を持つ兵器です。破壊と殺傷のための兵器によって国を守る軍拡、これは一つの現実ですがなじめない現実の一つです。人間に絶望したりしてしまわないで今世界の中で生きるという課題を考えたい。




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果てしなく [雑感]


  さくら千葉公園.JPG   桜の季節も次に移って新緑になろうとしています。


 先日は生実にあるお寺さんに伺いました。住職さんは不在で優しい奥様がお話をしてくださいました。もっと仏教を知りたくて、これからも機会を見つけてお話が聞けたらいいなと思います。お寺ってただお参りするなら何時でもだけれど話を聞きたいとなると敷居がたかくて、気がるにというわけにいきません。でも奥様の話ではそんなわけではないそうです。

 夫が読んで面白かったというので、「恋歌」(浅井まかて作)を読んでみたらすっかり引きずり込まれ2日間で読み終ってしまいました。私は茨城で生まれたので、幕末の尊皇攘夷運動の急先鋒だった天狗党を巡る史実や江戸時代の茨城県の風土が身近に感じられ、その中で歴史と政治というものの感慨を深くしました。

 なぜ戦争があるのか、なぜ孫子の命まで奪い合う非情、憎しみ、報復があるのか。

人間の悪はそんなに簡単になくならないのですね。でもこの小説は女性たちの再生の物語でした。

 と同時に明治維新とはなんだったのか、国と民主主義というような大きなテーマについても考えさせられました。


 

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残り少なくなって考えたいこと [自問自答]

 保坂正康さんの「平成史」を読み終わって、自分のこれまでの生活を考えながら、時代がどんな風に変わってきたのか改めて考えました。

 現在の天皇皇后は第二次大戦を十代で過ごされています。そのことが大きい。そして歴史の意味戦争の意味を深く考えられて戦後の生活を考えられたと保坂氏はいわれています。昭和を因とし平成を果として多様な光景が生み出されているという保坂さんの指摘は納得できるところのように思いました。




 子どもたちが思春期になって、親の在り方の難しさみたいなものを感じていた頃、図書館に勤めていて、日本で出版される本が次々目の前を通り過ぎていました。そのなかに秋山さと子さんの「母と子の深層」や、A・S・ニイルのニイル著作集などが含まれていて、とびついて読みました。本を読んだからって何が分かる?という人もいます。実際「読んだからって何が分かる」です。結果賢い子育てができたわけではありませんでした。でも本を読むことに意味がないとは思いません。本を読んで知ったこと、広がったことってとても大きい。井の中のカエルくらいに狭い生活空間の中で出会えること、知れることなんてわずかなものですから。出会いは本に限ることではないのですが。

 ニイルの本で考えさせられたことはたくさんありました。親と子の関係。子どもの扱い方。学校と子供など。先入観を持たずに子供にむきあった経験に基づくニイルの子供観はこれまでの世界の子供観を根本的に変える部分を持っています。

 

 ニイルはこう書いています。

 政治は決して、人類の重要問題に触れていない。保守主義、自由主義、社会主義、共産主義、いずれの主義のもとにあっても、若者への圧政は行われ、子供は条件付けによって育てられ、象徴的に去勢されている。そこで彼らは大きくなっても、終始鎖によって縛られてきたことを気づきえない。どこの国でも、いかなる時も大人は子供に対し、歴史の針を後へ戻した生活の仕方を教える。だれもが教師に教えられた知識以上のものは、ひとに教えることができないとしたら、若者に向かって、いかに生きるべきかをあえて教え得るほど誰が善良であり、誰が賢明であるといえよう。

現代において我々大人のやったことを、まあ考えてみたまえ。二つの戦争をやり、第三のそれもやりかねないが、今度のそれは、想像も及ばないほど恐ろしいものらしい。

 すべてのこれらの憎悪と戦争は、経済的条件の原因が主たるものではないということに気づいている人は甚だ少ない。

 どの戦争でも、労働者の大軍が他の労働者を殺し、労働階級が労働階級の地区に爆弾を投じている。労働者と資本家、持てるものと持たざるものとの純粋な戦いは存在しない。

二つの世界大戦に何百万の人びとが死んだ、、、それでいてなにも得ていない。戦争の後、世界はちょっとだってよくはならなかった。いや一層悪くなった。若者たちがこんなに条件づけられ、こんなに去勢され、愛国心といったような理由で、戦って死ぬようにさせられないならば、戦争など起こることはあり得ないであろう。(ニイル著作集7 自由の子ども序文から)


 このように述べた後、子供らは生まれたときから罰やしつけや小言を言われる代わりに愛が与えられ、子どもが自由であると同じに親も自由であるべき、しつけの厳しい家では子どもの権利は全く認められない、そこなわれた家庭では子どもはあらゆる権利を持っている。健全な家庭は、子どもも大人も同等の権利を持つ家庭であると書いています。


 自由と放縦の違い、自己統制の意味はなにか。


 自由は勝手気まま何でもしてよいということではありません。放縦とは他人の自由を侵すこととニイルは定義しています。


 自己統制の真の意味は洗礼派の牧師とゴルフをするとき、神への不敬の言葉を慎むというような良い作法をいうことでしょうか。わたしの意見では、自己統制とは、他人のことを考える能力のことであり、他人の権益を尊重することです。(ニイル著作集から)


 日本を巡るかつってない危機と安倍総理は国の防衛を強調しますが、安保体制下での日米共同作戦が進む状況のなかで、国と国の関係、平和や戦争についてどう考えるか、また家族や親と子の関係もまた根本から考えなおしたいことではないかと思います。



 

 



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