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「悲しい」が積み重なった末 [日記]

 人間の原点にある家族がいろいろの困難を抱えているように思えます。機能不全家族、コミュニケイションの力などについて考えさせられています。そのことは個人的のように見えながら個人の問題に視点を限ってみてしまうと間違ってしまうと思います。

 親になって、親だから悩んだり、考えることがいろいろありました。

 そしてなぜコミュニケイションが難しいのだろうと思ったり、また家族とはなんだろうかと思ったり。

 いまになって思うことがあります。

 言葉がつたわるには物は言いよう、言われようなのだなと思いました。本当の意味で相手が不在だと伝わらない、一方通行なのです。心のありようによって左右されることに気づいていないわけではなくても、本当に心底から気づくということはまた別のことのように思えます。本当に心底から気づくなんてことはそれほど簡単なことではないのだと思います。 

 通じ合わないのには理由があるのだと思います。その理由がはっきりすればよいのだと思います。

 理由がわかったうえで、誰もが誰にとっても必要な存在ではないし、誰かが必要なわけでもないと分かれば楽になります。

 人は多様だから、多様であることを認め、多様なものが共存できる緩やかな空間、公共、世界があれば平和や共存が可能なのではないでしょうか。

 そのような誰もが生きることができる共存の世界をつくるにはまずは自分について、自分の本ねとか本心とか、現実の姿とかよくわかって、その自分を認めたり、受け入れたりすることが第一歩、そのうえで他人との関係を考える。次に何らかの選択です。

 家族の中にそれぞれの個性を持つ個人が存在しうるなら、家族の意味があると思います。

 分断と格差と支配、他者が不在の世界、コミュニケイションがゆき詰まってしまっている世界の指導者の役割重いと思います。


 今日の朝日「折々の言葉」に柳美里さんの「この世から剥離しかけた人を、最後にこの世に繋ぎとめるのは、言葉だと信じている」という言葉がのっていました。

 

 




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