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2024-04-30 [日記]

 民文掲載「道行」を読んで                     

 この日の例会の主なテーマは文学とは何か、文学に何ができるか。何がもとめられているかというような難しいちょっと壮大なテーマだった。初めに出席者が民文の最近号作品からそれぞれ印象深った作品をあげた。わたしは四月号作品が皆面白く良かったと思ったが特に能勢龍三さんの「母の短剣」をあげた。渡部さんが木曽ひかるさんの「道行」を挙げたが、この作品は五月号に掲載されているので私はまだ読んでいなかった。帰宅して早速目をとおす。
 いい作品だなと思ったが印象は総体的だ。作品は一度読んだだけではよく分からない。二度、三度読んだ。それだけ私には強い印象を残した。
 作品の内容は夫守八十歳が妻に「死のう」というところからはじまる。「もういいことないから、人生におさらばしよう」という守と妻さと子。私たちの運命は決まった、あとはいつ実行するかだと悟るさと子。ふたりのこれまでの人生が語られる。有名な自動車産業の下請けのまたその下請けの部品を作っていたがリーマンショックのあおりを受けてから仕事がなくなる。新しい機械でないと注文品は作れないから仕事を回せないと言われ高額の機械を借金して買った。機械の購入後も大して仕事が増えたわけではなかった。零細企業で運転資金に困りいろいろのところで金をかり、借金まみれで家も土地もわずかな畑も抵当にはいっている。売れるものはすべて売った何もない家で夫妻はわずかに残った茶葉で最後のお茶をたて飲んだあと家を後にする。
夫妻には二人の息子があった。長男の健一は生まれたとき、右手の薬指と小指が欠損していた。幼稚園は何事もなく過ごしたが小学校に入るとからかいの対象になり、三年生からひどい苛めを受けていた。
「オバケ、バイキン」とののしられ、上靴を隠されたり、ランドセルに砂をかけられたりしていたが健一は親に話さなかった。
学校に行くのを嫌がるようになったが、学校に行かないなどということは考えられない親は行かねばならないものと必死で登校させようとする。さらに家に引き込もるようになってから、同級生が高校受験になるころに家庭内で激しく暴れるようになった。
学校は無理してでも行かなければならないと考える親と学校が苦しい、生きる力を否定されるような場でしかない子どもとの葛藤は今ではかなり見直されるようになってきているがこの物語の当時はまるで無理解だった時期と思われる。物語の設定時期はあまりはっきりしていないが引きこもりの子を預かる施設のものが力づくで子どもを連れて行く場面など考えると全く子どもの心が無視され、子どもの発達や教育について社会の理解がなかった時代だったことがわかる。
長男は自死し、次男は家を出て警察に捕まる事件をおこす。以後次男は親との連絡をたつ。どう生きているのかわからない。
悲惨な生涯だと思える登場人物たちだが、それが単なるエンタメ小説ではない日本の現実であると私には思える。どこにも救いがない現実を突きつけられて、最後に夫妻が横になっていると迎えが来るという山の中の洞窟を目指すという選択をするのもやむを得ないのかも知れないと読みながら納得してしまう。しかしその一方で同じように救いのない現実はあちこちに転がっている。長く生きたいと思わない、もう生きていたいと思わないという言葉をわたしもよく聞く。本当は考えないようにして避けているから生きていられるという現実があるのではないだろうか。皆未来への希望を失っている。それでいいとは思えない。それでいいと思えないところから戦いがある。
 文学とはなんだろうか。人間や社会の真実を描く。どう生きるか。人間とは何かを描く文学を私は読みたいと思う。
 作者がこの作品を書こうとした動機はなんだろうかと考えた。
 そして動機と重なるかもしれないが何を目指そうとしたのだろうか。もし未来や現実との闘いなら、この作品は悲惨な現実、どこにも救いのない現実を書いているがあまり戦いを提示してはいないように思えた。
 二人の子供はなぜ悲惨な道をたどることになったのだろうか、一番身近にいて一番理解しなければならなかったはずの自分たちが彼らの苦しみを理解できず、時に追い詰める結果になった自分たちの無明を悔い悲しみ、悲嘆にくれるがその悲しみはどこまでも減りもしなければ消えもしない。子どもたちが生きる社会はどうだったのか。
子どもはどう育成されるべきか、すべての子供がそれぞれ、創造し、かがやしいその人の人生を歩むことが出来る社会をどう作るか。人類と世界に課せられている課題は大きい。
 命の格差がなぜこのように大きく深く進むのだろうか。中でも子どもの育成と教育の問題は重要な核である。この作品はそうした問題の一面を提示していると思う。
 今はネットでは様々な情報にふれることができる。昔だったら知らないで過ごしてしまうだろう思想書や文学書を知ったり、人や歴史について調べることもできる。パソコンが欠かせなくなってしまった理由だ。
この頃特に社会の未来はどうなるのだろうという疑問に関心が集まっていた。わたしはA・S・ニイル著作集をじっくり読んでみたいと思っていたところだった。そんなときネットで「社会の未来」シュタイナー社会論入門(1)高橋巌著の書評(若松英輔)が目に留まった。
 高橋巖はまず、シュタイナーは「イデオロギー」と「概念」から離れたところで人間と社会がつながり直す可能性を説いたと述べている。「イデオロギー」と「概念」から離れたところで人間と社会がつながり直す、、、ああ、これだわと思った。
 社会には三つの層が分かちがたく存在する。「精神生活」「法生活」そして「経済生活」である。三つに優劣はなく、必須の役割を担っている。それぞれの生活を支えているのは「自由・平等・友愛」だとシュタイナーはいう。つまり、真の意味で自己に由(よ)ること、優劣ではなく、等しさが探究され、深い敬意に貫かれた愛によって社会が新生すること、それが喫緊の課題だとおよそ百年前に説き、高橋はその呼びかけを21世紀において受け止め直そうとする。  
現代人はいつからか労働力を「商品」にしてしまった。労働者を守るはずだった先行する理論家たちもこの根本問題を見過ごしてきた、と高橋は指摘する。「労働」は、生活資金を手にするための手段に終わらない。真の自己、世界、生きる意味にすら人を導く契機になる、というのである。若松英輔評から引用
 一つは生きる態度で、もう一つは身近な生活そのものであるらしい。そしてその目は人々を縛っている社会そのものへの目が必要である。
 ベンヤミン、シュタイナー、ニイル、そこに何か共通したものがあるように感じる。今はまだはっきりと言葉にならないが共通するものはなんだろうか。

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